シェイブテイル日記2

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浜田宏一氏を有象無象と呼ぶ藤原元日銀副総裁の正体

今日は日銀にとって大きな転換点となる日でした。

2%目標のんだ日銀 今後繰り返す3カ月ごとの圧力
日経新聞 2013/1/22 14:20

 日銀は22日の金融政策決定会合で、2%の物価目標を導入し、その達成に向け、事実上無期限の金融緩和を進めることを決めた。デフレ脱却への決意を示す政府との共同声明の内容も決定。これを受けて、今後4月、7月などと少なくとも3カ月ごとに、目標達成に向けた進捗の度合いを政府の経済財政諮問会議に報告することになる見通しだ。そのたびに政策対応を迫られそうで、少なくとも4半期ごとに緩和圧力を受けることが「制度化」される。特に7月は安倍政権が必勝を期す参院選の直前に報告の時期が来そうで、一段と踏み込んだ「新次元」の緩和策を迫られる可能性もある。

 安倍政権の方針に沿い、2%のインフレ目標を導入した日銀ですが、日銀OBからは、安倍政権の方針には異論が聞こえて来ているようです。

日銀と政府の暗闘〜政治介入、銀行券ルール抵触?OBから批判噴出
Business Journal 2013.01.22
「世界中どこの国の選挙でも、中央銀行の在り方が最重要の争点になった例はない。その事実だけで私は恥ずかしい気持ちに陥った。この国の中央銀行は、宿命的スケープゴ―トになるのだろうか」

 元日銀副総裁の藤原作弥は、古巣である時事通信の機関誌「金融財政ビジネス」(12月10日付)のコラムでこう嘆いてみせた。浜田宏一・エール大学教授、高橋洋一勝間和代竹中平蔵伊藤隆敏山本幸三……「安倍総裁は、これら有象無象のご進講をにわか仕込みし、論理的に整理・吸収できぬまま、お粗末拙劣にもあわてて開陳してしまったのだろう」と切り捨てている。さらに、「長期金利の暴騰、ハイパーインフレなどの裏目の現象が現出した場合の責任は誰がどうとるのだろうか」とも記している。

 そして、藤原氏が最も懸念するのは日銀法の改正。「この日銀法改正、くせものである。旧日銀法は太平洋戦争が勃発した昭和16年12月の翌年昭和17年に制定した戦時立法。同法の政府の日銀に対する業務命令、監督権限、総裁罷免権などを改め、独立性と透明性の2本柱の新日銀法に改正したのは15年前のことではないか。若き右翼アベちゃんの日銀法改正論議は『国防軍』創設、自主憲法制定などの主張と共に、戦時軍国主義体制を想起させる。厳寒の冬の季節到来か。ブルブル」と懸念を表している。

 アベノミクスの中核をなすのはリフレ政策ですが、このリフレ政策を主導的に提唱する浜田宏一・エール大学名誉教授らを有象無象と切り捨てる、日銀の元副総裁、藤原作弥氏とは一体どのような方なのでしょうか。

 藤原作弥氏は、1998年4月改正施行された、現行日銀法で最初の日銀副総裁に任命された方です。

 その前職は時事通信の解説委員長でした。 主著は「李香蘭 私の半生 (山口 淑子、 藤原 作弥 共著1987/7) 」 、「わが放浪―満州から本石町まで (2001/9) 」*1など、主にジャーナリスト畑を歩いてこられました(図1,2)。
 仙台生まれですが、幼少期は満州で過ごされたようです。

 ただ、経済学とは無関係な経歴にもかかわらず、日銀副総裁が天職であった可能性もあります。 この点を少し検証してみましょう。

日銀法改正前後を年表風にすればこんな具合になります。

1995年頃 物価がデフレ気味となる。(GDPデフレータ -0.5%)
1997年  橋本首相、消費税を3%から5%にアップ。 橋本首相の一連の改革のひとつとして日銀法が改正される。
1998年  3月、速水優氏が日銀総裁に就任。4月、改正日銀法施行。藤原氏時事通信から日銀副総裁に抜擢される。
     この年以降、GDPデフレータは現在に至るまでマイナス。
2000年  8月、デフレのあおりを受けて7月にそごう破綻、といった経済環境にもかかわらず、ゼロ金利を解除。
2001年  3月、回復しかけていた景気は再び悪化、日経平均は1万2000円を割る。 日銀の政策決定会合の内容が不十分ならば政府代表による「ゼロ金利政策復帰提案」が準備されているとの情報が日銀に入る。 量的緩和は不可能としていた委員を含め量的緩和政策案(しかもこの案に一貫して反対し続けていた速水議長案)に賛成、量的緩和政策が開始される。
(その後、量的緩和策を提案した中原委員以外の委員が、外部に対し「自分が量的緩和政策を主導した。」と胸を張る。)

 
 デフレに陥った後の日銀の政策での3つの大きな過ちのひとつ*2とされるのが、2000年の速水総裁らが政府の反対を押し切ってゼロ金利政策を解除したことでした。
そのころの日銀議事録は10年の非開示期間を経て2011年に公開されています。

★禍根残したゼロ金利解除、緊迫の駆け引き明らかに 日銀議事録  日経QUICKニュース(2011.01.27)
 日銀は27日、2000年7〜12月に開いた政策委員会・金融政策決定会合の議事録を公開した。
同年8月に日銀は政府の反対を押し切ってゼロ金利政策を解除。緊迫のやり取りが明らかになった。

 解除に向けて議論を先導したのは、議長の速水優総裁。非常措置のゼロ金利政策
「条件がそろえば元に戻すのが当然。そうしないと市場のバイタリティーが出てこない」と持論を展開した。

 そごうが経営破綻した直後の7月は「少し間が悪い」(武富将委員)として解除を見送った。
8月には株価が落ち着きを取り戻し「そごう問題の影響にも一応見極めがついた」(藤原作弥副総裁)として議論が一気に加速。
雇用・所得環境も改善し、多くの委員が「デフレ懸念の払拭が展望できるような情勢に至った」と判断。
ゼロ金利解除の流れが決まる。

 正副総裁を含む9人の政策委員のうち、解除に反対したのは中原伸之委員と植田和男委員。
物価がプラスに転じていない段階での利上げに異を唱えた中原委員は、「デフレ懸念払拭」という抽象的な判断基準を痛烈に批判した。
株価などを気にした植田委員を藤原副総裁が「できるだけ多くのひとの賛同を得たい」と勧誘する一幕もあった。

 速水総裁がゼロ金利解除を提案したところで、政府の出席者が「伝家の宝刀」を抜く。会議は一時中断。
大蔵省と経済企画庁の代表2人が協議し、日銀に採決の先のばしを求める「議決延期請求権」を行使した。

 前代未聞の事態に戸惑いが広がる。山口泰副総裁や三木利夫委員らは政府側に繰り返し説明を求めた。

大蔵省の村田吉隆総括政務次官はゼロ金利解除で「市場に送るシグナルが(金融引き締めに)変わることを心配している」と警告。
しかし速水総裁は「金融緩和の程度を微調整する措置」にすぎないと譲らなかった。

 中原委員は政府との対立が「今後の政策運営に禍根を残す」と警鐘を鳴らす。
最後は速水総裁が「これ以上議論しても時間がかかるばかりだ」と打ち切った。

 1年半続いたゼロ金利政策がこうして幕を閉じる。だが同年秋にIT(情報技術)バブルが崩壊。
結果的に信念を貫いた日銀の大決断は裏目に出て、翌年3月に量的緩和へと追い込まれていく。
(文中の肩書、組織名は当時)

 改正日銀法下での日銀人事については、当時の日銀審議委員のひとり、中原伸之氏は著書「日銀はだれのものか」(中央公論社)で、次のように書いておられます。(図3,4)

 私が疑問に思ったのは、その時(注:1998年の改正日銀法のもと)、何を基準にして代わりの総裁、副総裁を選んだのか今ひとつクリアではなかった点です。 ジャーナリストから副総裁に登用された藤原作弥さんについても、当時、元首相の中曽根康弘さんは「マスコミへのご機嫌取りではないのか」と不快感を示されていたのを覚えています。その藤原さんが初対面の時に「金融はずぶの素人です」と言ったのには驚きました。さすがに大陸生まれの人は違う、と感心しました。 英語でごた混ぜになっていることをミクスド・バッグと言います。そんな印象でした。 

 改正日銀法により、自称「金融はずぶの素人」が日銀副総裁に収まり、2000年8月には、当時の速水総裁らとともに、ゼロ金利の解除に奔走しました。
中曽根元首相が懸念したように、改正日銀法のもとでは、ジャーナリストでも副総裁に栄達できるようになりました。これもあってか、昨今日銀の過ちを指摘できるマスコミは一部の例外を除けばほとんどなくなっています。
また、この「ずぶの素人」が日本経済を奈落の底に叩きこむ政策を実行しても、その責任が問われるどころか、やった事実さえ10年間も隠されてしまっています。

こうして過去の事実を省みつつ藤原元副総裁の発言内容をみますと、藤原氏の懸念とは裏腹に、同氏のような「ずぶの素人」が政府の意向も意に介さず日銀の金融政策を好き勝手にさせないためにも、この機会に日銀法は再度改正されるべきだと思います。

 
図1,2藤原作弥元日銀副総裁とその主著のひとつ
日銀副総裁まで努められた藤原氏ではあるが、経済への関心は特にお持ちではないようである。
氏の著書のひとつ、「李香蘭、私の半生」

これに対し、橋本日銀デフレに対して、日銀審議委員の中でほとんど唯一といっていいほどデフレ脱却に孤軍奮闘された中原伸之氏の著作、「日銀はだれのものか」には今も続く日銀の病理が余すところなく書かれています。
 
図3,4 中原伸之氏と著書「日銀はだれのものか」
速水日銀の中で、デフレ脱却に孤軍奮闘した中原伸之氏により、
日銀の病理が余すところなく書かれた「日銀はだれのものか」

*1:両書ともに、1/13日現在、Amazonでは中古品価格¥1で購入できます。

*2:残りは、2006年の福井総裁時代にデフレ状態で量的緩和を解除したこと、2008年の白川総裁時代に、リーマン・ショックで各国が中央銀行のBSを急拡大させたのにもかかわらず放置したため、円急騰を招き、デフレ不況を深化させたこと。