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デフレ金融史の解剖

今日の日経新聞では日銀のデフレ脱却に対する本気度に疑問が呈されています。

日銀は「本気」か?   2012/3/31 日本経済新聞
 2月14日の金融政策決定会合以来、「日銀は本気か」との問いをよく聞く。中長期的な物価安定の「目途(めど)」1%は、期限と責任を明確に定めていない。米連邦準備理事会(FRB)の目標とする2%と比べていかにも腰が引けている印象は否めない。
 しかし会合の直後、円高は円安に転じ、株価も急回復を遂げた。FRBはすでに2%を達成しているため現状維持なのに対して、日銀は1%をにおわせるだけで緩和とみなされた。金融政策のもつ圧倒的な力を見せつけられた。
 結局、本気かどうかは、日銀の行動いかんにかかる。これまでの日銀の行動様式は(1)自分からは動かない(2)緩和は遅く引き締めは早く(3)金融政策の作用よりも副作用、効果よりも限界を気にする、とまとめられる。今回はどうか。
 第1に日銀の腰は重かった。今回の緩和には政治家をはじめ各界からの要望が大きく働いた。こうした要望を圧力として問題視する人もいるが、それは筋が違う。日銀が無謬(むびゅう)でない限り、日銀の政策は常に批判にさらされるべきである。民主的な批判にさらされない専門家支配は腐敗の温床となる。
 第2に、日銀は3月の金融政策決定会合で追加的緩和を打ち出すのを見送った。日銀は政策会合で2回続けて緩和を行わないのが慣例だ。この慣例に沿ったことで、従来通りという印象は強まった。さらに2月の政策決定会合後の白川方明総裁の記者会見には気になる一節がある。インフレ率1%到達が見通せるまでゼロ金利政策を解除しないというのは、実際には1%よりも低い段階でも「見通せた」とみれば引き締めに転じる可能性があるのだろうか。
 第3に、3月24日の白川総裁発言である。このタイミングで、長期にわたる金融緩和が「金融システムを不安定にさせ、ひいては実体経済や物価を不安定にする」と述べ、「副作用や限界」について意識する必要があるという。総裁の面目躍如である。
 3月28日の講演で宮尾龍蔵審議委員は、2月の決定は「デフレ脱却に向けたコミットメント」であり、円高の是正と株価の上昇を通じてデフレ脱却を実現するという。日本国民のためにそうであることを心の底から祈りたいと思う。しかし、さらなる資産購入額の増額を求めた同委員の3月会合での提案は否決された。過剰な期待は禁物ではないだろうか。(カトー)

日銀がなぜデフレ脱却に対して腰が重く、デフレ目標政策をとり続けるのか、という疑問を考える上で、歴史上のデフレを総括し、そこから共通のパターンを再認識してみることも必要でしょう。日銀デフレ以前の、歴史上有名なデフレを4つ並べて共通項を考えてみました。

【1】ギリシャの隆盛(紀元前5C)・没落とローマ台頭(紀元後2C) *1
(1)ラウリウム銀山開発
金銀といった貴金属は永遠に変質しません。そこで労働などによって得た対価を、金銀などのコインとして貯蔵することにより莫大な富を集めることが可能となりました。 紀元前5世紀頃のギリシャでは唯一の銀山がアテナイのラウリウムで発見されました。 アテナイはラウリウム銀山由来の銀コインによりギリシャ有数の都市国家となりました。この銀コインには、ほぼ100%純度の銀であることを保証する、フクロウの刻印がありました。こうした経済的基礎を背景として日本が弥生時代のこの時代にギリシャでは哲学・文学・数学などの文明が花開いていました。(生産性増大) 
(2)ラウリウム銀山廃鉱
ラウリウム銀山は約100年で掘り尽くされ、これとともにアテナイは衰退していきました。 末期のアテナイは、それ以上増えない一定量の銀コインに対し、実体経済の生産性が向上することでデフレ状態になって衰退しました(通貨供給量制限)。
(3)ローマでの低品位コイン流通
 イタリアの都市国家ローマでは、アテナイ純銀コインが純銀であることを保障するためにフクロウの刻印を押したことを逆用し、銀の品位を落としたコインに当時の皇帝の姿を刻印して流通させました。 ここに実物の銀と、コインが保障する価値とが分離され、実体経済の活動量に応じた量のコイン供給が可能となり、小さな都市国家だったローマが世界帝国に上り詰める礎となりました(通貨供給量増大)。
  
フクロウ印高品位コイン(左)とローマ帝国の礎となった低位品位コイン(右) 
ギリシャアテナイのフクロウ印高品位コインはギリシャ文化が花開く原動力となったが、
銀山の産出量枯渇に伴い、ギリシャ経済の足を引っ張るようになった。
フクロウ印コインの刻印だけをまねたローマの低品位コインは経済需要に応じて
供給量を増やすことができローマ帝国発展の礎となった。

【2】徳川吉宗時代[日銀サイトから全文引用しましたので、ここだけ文体が異なりますがご容赦ください]*2 
(1)年貢米増収策期
 テレビや時代劇でお馴染みの八代将軍吉宗は、徳川幕府中興の祖として名高い。吉宗は、享保の改革を通じて、五代将軍綱吉の放漫財政や災害の発生などにより危機的状況に瀕していた幕府財政を見事に立て直したのであった。とくに享保7年(1722)、町人請負方式による新田開発を解禁のうえ年貢米の増収を図ったり、米価の調整に腐心したことにちなんで、吉宗は米将軍とも呼ばれる。(生産性増大) 
しかし、財政立て直しに最も寄与したのは、国内産業の振興策ではなく、実は元文元年(1736)に実施された貨幣の改鋳という金融面からのリフレ政策であった。
(2)緊縮財政期
 吉宗は当初、倹約による財政緊縮を重視したため、幕府はもとより諸大名も財政支出の削減という強力なデフレ政策を実行した。その結果、江戸の経済は深刻な打撃を受け、街は火が消えたようになったといわれている。物価も下落傾向をたどったが、「諸色高の米価安」と称されるように、とりわけ米価の下落が著しかった。年貢米の売却で生計を立てていた武士階級の場合、米価安は直ちに所得の低下を意味したため、米価の独歩安は彼らの生活を圧迫した。
 これに対し将軍吉宗は、米価の引き上げを狙いとして商人に米の買い上げを強制するなど、各種の米価対策を講じた。しかし、米の増産率が人口増加率を上回るという需給状況もあって、期待した効果はもたらされなかった。幕臣たちは、金銀貨の改鋳による通貨量の拡大を幾度となく進言したが、元禄の改鋳が一般庶民を苦しめたことを熟知していた吉宗は、なかなか首を縦に振らなかった(通貨供給量制限)。そして、元文元年(1736)に至り漸く、改鋳が決断された。
(3)増歩(ましぶ)
 元文の改鋳に当たって徳川幕府では、改鋳差益の獲得を狙いとした元禄・宝永の改鋳とは異なり、改鋳差益の収得を犠牲にする一方で、新貨の流通促進に重点を置いた。すなわち、1枚の金含有量は享保小判の半分程度に引き下げられたが、新旧貨幣の交換に際しては旧小判1両=新小判1.65両というかたちで増歩(ましぶ)交換を行う一方、新古金銀は1対1の等価通用とした。この結果、旧金貨保有者にとっては、旧貨をそのまま交換手段として利用するよりも、増歩のえられる新金貨に交換のうえ利用するほうがはるかに有利となった。 こうした増歩交換政策の実施が功を奏し、徳川幕府が期待したとおり新金貨との交換が急速に進み、貨幣流通量は改鋳前との比較において約40%増大した。この貨幣供給量の増加は物価の急上昇をもたらし、深刻なデフレ下にあった日本経済に「干天の慈雨」のような恵みを与えた。例えば大坂の米価は、改鋳直後の元文元年から同5年までの5年間で2倍にまで騰貴するなど、徳川幕府の企図したとおりの物価上昇がみられた。こうしたなかで経済情勢も好転し、元文期に制定された金銀貨は、その後80年もの間、安定的に流通した。
 一方、幕府財政は、相対米価の上昇、年貢の増徴のほか、貨幣流通量増加の一部が改鋳差益として流入したこともあって大きく改善した。この傾向は宝暦期後半(1760年代はじめ)まで続いた。このように元文の改鋳は、日本経済に好影響をもたらしたと積極的に評価される数少ない改鋳であった(通貨供給量増大)。
     
徳川吉宗緊縮財政期の高品位享保小判(左)と、交換された元文小判(右) 
旧小判1両=新小判1.65両というかたちで増歩(ましぶ)され、市中の貨幣流通量は40%増大し、
享保の改革に伴ったデフレは解消した。

【3】英国・米国などの「大不況」(1873-1896)
(1)産業革命(18Cから19C)
イギリスで産業革命が始まった要因としては、原料供給地および市場としての植民地の存在、清教徒革命・名誉革命による社会・経済的な環境整備、蓄積された資本ないし資金調達が容易な環境、および農業革命によってもたらされた労働力、などとされています。(生産性増大) 
(2)賠償金支払いと金本位制
この恐慌の真の原因は、1870年の普仏戦争敗北によりフランスの経済が大打撃を受け、1871年のフランクフルト講和条約にてドイツに多額の賠償金の支払いを要求されたことにあるのではないか、という意見もあります。米国での価格下落の主な原因は、米国が南北戦争の後に金本位制に復帰しようとして、緊縮財政を採用したことによるとされています。米国は金本位制復帰の目標達成のために、市中の通貨流通量を減らしたため、商取引を円滑に行うだけの通貨量が不足しました。金融引き締め政策の結果、銀の価格は下落していき、資産価値も大幅に損なわれました(通貨供給量制限)。
(3)金産出量増大
イギリスのデフレーションは1896年には終わり、この期間ほとんど一定だったベースマネーの増大とともに、物価は緩慢に上昇するようになりました。その原因は、南アフリカとカナダで金が発見され、金の抽出率を高める青化法が採用されたことによります。金の生産の増大とともに、金本位制下であっても、ベースマネーが増大しました(通貨供給量増大)。 その結果、30年間続いたデフレーションは終わりました。
  
世界の金生産量に対する青化法の効果 
1890年に効率的な金抽出方法である青化法が発明されて以来、金の生産量は飛躍的に増大した。
金本位制下の世界的大不況だったが、この年を境にデフレ脱却に向かった。*3

【4】世界大恐慌時の昭和恐慌(1930年前後)
(1)大恐慌前の好景気
1920年代、第一次世界大戦で世界的大国となった米国では「永遠の好景気」という言葉も生まれ、日本でも大戦特需による増産・好景気状況となりました。(生産性増大) 
(2)金本位制復帰・濱口内閣の緊縮財政
1920年代には世界の潮流として主要国はつぎつぎに金本位制へと復帰していました。 日本政府は、このような世界的な潮流に応じて何度か金解禁を実施しようと試みました。このころ、日本の復帰思惑もからんで円の為替相場は乱高下したため、金解禁による為替の安定は、輸出業者・輸入業者の区別なく、財界全体の要求となりました。
 このような状況下で1929年に成立した立憲民政党濱口雄幸内閣は、金本位制の復帰を決断し、日本製品の国際競争力を高めるために、物価引き下げ策を採用し、市場にデフレ圧力を加えることで産業合理化を促し、高コストと高賃金の問題を解決しようとしました。これは多くの中小企業に痛みを強いる改革でした。浜口内閣の井上準之助蔵相は、徹底した緊縮財政政策を進める一方で正貨を蓄え、金輸出解禁を行うことによって外国為替相場の安定と経済界の抜本的整理を図りました(通貨供給量制限)。
(3)高橋財政
著しいデフレ不況により浜口内閣は倒れ、1931年12月に成立した犬養内閣の蔵相に就任した高橋是清は、まず金輸出再禁止を実施します。19327年11月には日銀による国債直接引き受けを実施します。 金本位制離脱と日銀国債引き受けという2つの金融緩和策により、デフレは終息、マイルドインフレ下に好景気となったいわゆる「高橋財政」の時代となりました(通貨供給量増大)。
   
濱口雄幸(左)と高橋是清(右:昭和26年発行の50円札から) 
今も一部作家などに根強い人気がある濱口雄幸。 だが、濱口雄幸の国際化を
目指した物価引き下げ策は中小企業を潰し、農村の疲弊を招いただけに終わった。
一方、戦後の昭和26年に日銀券の肖像ともなったのはその20年前にデフレを
脱却させたことが皆の記憶にも新しかった高橋是清だった。
歴代日銀総裁を務めた人物で唯一紙幣に肖像が描かれた
高橋是清の施策を現代の白川日銀が批判するのは歴史の皮肉である。

歴史上のデフレの原因と脱却
以上、4つのデフレ脱却事例から言えることは、背景に生産性増大がある中で、何らかの理由で需要と共に増えていくべき貨幣量が生産量に追いつかなかった時にデフレが発生し、生産量に貨幣量が追いつくようになった時点でデフレは終結しています。

さて、現代日本のデフレ。 
ではどうすればいいのか。 またなぜ日銀はデフレ政策を堅持しているのか。
次回*4 はその「謎」を考えてみましょう。(→日銀はなぜデフレ政策を堅持するのか