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新井白石の失敗もリフレ政策の失敗?

昨日の日経に続き、リフレ政策を実行した荻原重秀をdisっている久保田さん。
歴史の改ざんはいけませんぜ。

昨日、日経新聞が荻原重秀をdisる内容の記事を載せていたので、日経新聞の近世史には「元禄景気」はない? - シェイブテイル日記 日経新聞の近世史には「元禄景気」はない? - シェイブテイル日記 で、日本経済史に残る、荻原重秀のリフレ政策での最大の功績、「元禄景気」を日経記事が全く評価していないことを述べました。

 たまたまウェブを流れていた久保田博幸氏の「牛さん熊さんブログ」を見たところ、また別の意味で荻原重秀リフレ政策の否定論が載っていました。

将軍綱吉は勘定吟味役の荻原重秀に幕府の財政の立直しを命じ、荻原重秀はそれまで流通していた慶長小判(金の含有率84-87%)から、大きさこそ変わらないものの金の含有率を約57%に引き下げた元禄小判を発行したのである。銀貨の品位も80%から64%に引き下げた。

 金銀貨の品位引き下げが均衡を欠いていたことから、銀貨の対金貨相場が高騰し、一般物価も上昇した。このため1706年以降、銀貨が4回に渡り改鋳され、1711年の改鋳により銀貨の品位は20%と元禄銀貨の3分の1にまで引き下げられたのである。金貨については1710年以降、品位を84%に引き上げたものの量目を約2分の1にとどめ、純金含有量が元禄小判をさらに下回る宝永小判を発行した。

 これらの改鋳により幕府の財政は潤ったものの、これにより通貨の混乱とともに物価の急騰を招き、庶民の生活にも影響が出た。荻原重秀の政策に関してはデフレ経済の脱却を成功させ元禄時代の好景気を迎えたとの見方もある一方、インフレを引き起こしたといった批判も強い。

 荻原重秀は著作を残していないが「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以てこれに代えるといえども、まさに行うべし」と述べたとも伝えられている。現在の管理通貨制度の本質を当時すでに見抜いていた人物でもあったと言える。

 荻原重秀は、結果的に通貨価値を引下げ信用度を低下させ、インフレを招くことによるデフレ対策を行った。

 荻原重秀の財政金融政策はその後、新井白石などにより修正を余儀なくされる。しかし、幕府の財政はむしろ危機的状況に陥ることになる。一度信用を失ったものを立て直すことが難しいことはその後の歴史を見ると確認できる。

 高橋是清による高橋財政も金輸出禁止が政策の柱にあった。金本位制から脱することにより、金の流出を防ぐための円高政策や、金融引き締め、緊縮財政等を無理に行う必要がなくなった。このため円安政策・金融緩和政策・財政政策が可能となったのである。財政政策のために必要な国債発行は日銀の引受方式で行った。その政策が結果として何を招いたのか。

 リフレ政策は一時的なユーフォリアを招く。だからこそ出口政策を困難にさせる。その政策は結果として政府の信用を毀損させることになる。現在の金融システム上では、政府とともに中央銀行に対する信認も失うことになる。つまり通貨や国債への信認低下を招く。ここに大きな問題が存在することを歴史は示しているのである。

      牛さん熊さんブログ  荻原重秀の政策への評価 

赤字はシェイブテイルによるもの)

荻原重秀は元禄の改鋳で、小判の品位を落とすことにより、幕府に500万両もの出目(通貨発行益)をもたらしました。
この元禄の改鋳では、それまでのデフレ経済を適度なインフレに転換させたため、大変な好景気となり、元禄文化が開花しました。

新井白石といえば今で言う緊縮財政派であり、経済政策の実績とは無関係に荻原重秀を憎悪していました。*1

ただ、その後元禄地震(1704)、宝永地震・富士山宝永噴火(1705)と天変地異が続き、幕府の出費がかさんだため荻原重秀が二度目の改鋳、宝永の改鋳に踏み切ります。 結果は二度目の500万両の出目と高いインフレです。幕府は助かりましたが、民衆の暮らしは厳しくなりました。

荻原重秀を重用していた徳川綱吉が死去した宝永6年(1709年)以降、新井白石と荻原重秀の政治的対立が先鋭化しました。

その後新井白石の工作が奏効して、正徳2年(1712年)、荻原重秀は勘定奉行を罷免され、翌年失意のまま死去します。

新井白石は綱吉の次代、家宣の側近として「正徳の治」と呼ばれる政治改革を断行しました。

正徳小判は新井の建言で発行されたもので、新井は貨幣の含有率を元に戻すしました(1両あたり10g→15g)。
市中に流通する通貨量は減ったため、経済は冷え込み、デフレーションが発生しました。

しかし死人に口なし。新井白石は自分の政策失敗には口をつぐみ、「折たく柴の記」で荻原重秀を悪徳腐敗役人に仕立てあげました。


図 江戸期の小判の金含有量推移
出所:日本銀行 貨幣博物館資料

時代はずっと下って、80年前の昭和恐慌を巧みな金融財政政策で乗り切った高橋是清
高橋は、デフレにはリフレ政策、インフレ高進気味だと財政政策の抑制をおこないました。
ただ、軍事費をも聖域化せずに切り込んだため、軍部の一部の恨みを買って2・26事件で斃れます。

その後を受けた馬場硏一蔵相は、軍部に迎合して国債を増発、高インフレを招きました。
日銀史観では、馬場硏一の失敗も含めて、高橋財政の影響といわれて来ましたが、リフレ政策に対するポジティブ評価が高まった近年は日銀による高橋財政批判は影を潜めたようです。

デフレ脱却に成功した同じリフレ政策でも荻原重秀の後は新井白石のデフレ経済、高橋是清の後は馬場硏一による高インフレ経済と、後任者によりまるで逆方向に失敗しています。

牛熊ブログではこれらを十把一からげで、リフレ政策の失敗としていますが、後の結果がまるで逆なのに、荻原重秀・高橋是清の死後の失敗経済政策までリフレ政策のせい、というのでは歴史の改ざんと呼ばれても仕方がないのではないでしょうか。

*1:勘定奉行 荻原重秀の生涯 ―新井白石が嫉妬した天才経済官僚 (勘定奉行 荻原重秀の生涯 ―新井白石が嫉妬した天才経済官僚 (村井淳志著・集英社新書)などに記述あり