シェイブテイル日記2

シェイブテイル日記をこちらに引っ越しました。

イエレン、トービン、ケネディそして…

現在のFRB議長イエレン氏はジェームス・トービン氏の秘蔵っ子だったと言われています。
現代は、故トービン氏が活躍した時代と何が異なっているのでしょうか。
少々古い本ですが、W.カール・ビブン氏の書籍にその答えが書かれていました。

イエレン議長FRB議長の背景についてはFRB議長就任前の次の記事に垣間見ることができます。

 停滞した景気を刺激するためには型破りな措置もいとわないイエレン氏の態度は、故ジェームズ・トービン氏の秘蔵っ子として受け継いだ知的遺産を反映している。トービン氏はノーベル経済学賞を受賞したエール大学教授で、ケネディ大統領やジョンソン大統領にも助言を提供していた。トービン氏の功績は、大恐慌時代の英経済学者ジョン・メイナード・ケインズの考え方を軸にしており、高失業率や貧困などの問題に政府が対処することを支持していた。
 イエレン氏は1971年にエール大学で経済学の博士号を取得したが、その際に論文のアドバイザーを務めたのがトービン氏だ。イエレン氏は大学時代は失業のコストと原因を専門に学んだ。政府と特に中央銀行は失業率の低下に貢献できる、という師の信念をイエレン氏は受け入れた。
 イエレン氏はトービン氏が02年に死去した際、「高度な知的水準を満たすだけでなく、人類の幸福度を高める仕事」をするようトービン氏が教え子を励ましていた、とエール・デーリー・ニュース紙に語った。

 次期FRB議長指名のジャネット・イエレン氏とはどんな人物か WSJ 2013年10月9日

トービン氏はケインズ派の経済学者でジョン・F・ケネディ大統領時代には大統領の経済顧問のひとりでした。


ジョン・F・ケネディは「米国を再び活性化させよう」をスローガンに、1960年の大統領選挙キャンペーンを展開した。その経済戦略の最高顧問として、ケネディミネソタ大学のウォルター・ヘラーを選んだ。

ケネディ陣営に加わることになった20余年後、ヘラーは指導的地位のケインズ経済学者となっており、その生涯を通じて、彼はケインズ学派の明白な代表者だった。

ケネディは、ヘラーをCEA委員長に指名した。CEAは1946年の雇用法によって設立された、三人のエコノミストから構成される委員会であり、年次経済報告書を準備し、経済政策問題について大統領に一般的なアドバイスを行うという役割をになう。

ケネディは、ウォルター・ヘラーをCEA委員長に指名した。委員長を補佐するCEAの他の二人の委員とスタッフは、専門的で、有能なエコノミスト集団から選ばれた。後にノーベル経済学賞を受賞するテル大学のジェームス・トービン、スタンフォード大学ケネス・アローそしてMITのロバート・ソローだ。ヘラー、トービン、ソローそしてミシガン大学のガードナー・アグリーは米国経済学会会長となっている。
CEAの正式なメンバーではなかったが、ポール・サミニルソンも非公式の顧問として参加した。
CEAのメンバーの見方によれば、彼らは教育係だった。大統領自身を教育するだけでなく、経済問題についての新しい考え方を議会や一般国民に広めることが、彼らの役割だった。ジェームス・卜−ビンは「ケネディは、マクロ経済問題についてしっかりした理解も確信もなくオフィスにやってきた。彼は大統領就任時には経済学にまったく無知だったが、その後、CEAのビルでは経済学に関心を持つようになり、教授たちにとってすぐれた生徒となった」と述べている。*1

こうしてヘラーCEA委員長やトービンらにより薫陶を受けたケネディは、経済安定化のために、政府は均衡予算にはこだわらず、必要に応じて積極財政が必要だという見識を持つようになりました。

一般の人々にとって均衡予算という考え方は、1960年代初期には依然として真実だった。そして赤字予算という考えを推進することは大胆な行為だったのである。

ケネディが1962年にエール大学の卒業式で行った演説はよく引用されるが、その演説のなかで、ケネディは経済問題へのアプローチについて人々が抱いている考え方を再考すべきだとした。

その演説の草稿を書いたヘラーは、
「大統領閣下。私はこれまで他の大統領が決していわなかったことをこの草稿で大統領、あなたにいってほしいのです。 それは、ある状況下での赤字予算は善いことだということです。いいかえれば、赤字には建設的なものとそうでないものがあり、それは状況次第なのだということです。 そのようにいうと大統領は、『わかった。もう一度読んでみよう』といい、彼はそれを読んだ」。
へラーはさらに続けて「大統領は一つのセンテンスについて表現をおだやかにし、そして草稿を私に返して『さあ、やろう』といった」と語っている。 *2

1962年から65年にかけては、ケインズ経済学により米国経済は絶好調で中産階級が膨張し、また国内総生産や生産性も上がり、米国は経済成長の、ある種黄金時代を経験していました。

そして…

ニューエコノミクス成功のシンボルの一人として、1965年の『タイム』誌の最終号のカバーストーリーの主役に、他ならぬジョン・メイナード・ケインズが選ばれたのだ。 タイム誌はケインズ経済学について、次のように謳い上げた。

ケインズの死から約20年を経た現在、彼の理論は世界中の自由世界の経済、なかんずく最も富み、最も活気に満ちた米国の経済に多大の影響を与えている。ワシントンで米国の経済政策を練り上げている人々は、戦後の激しい景気変動を回避するためだけでなく、すばらしい経済成長を実現し、めざましい物価安定を達成するために、ケインズ主義を用いている。いまや、ケインズと彼の考え方は、むろん一部の人々にとっては神経をいら立たせるものだが、広範に受け入れられてきている。そして、ケインズ経済学は大学においては新しい正統派になり、ワシントンでは経済運営の基本になった。ケインズの考えは非常に独創的かつ説得的であり、ケインズはいまや、アダム・スミスおよびカール・マルクスとならぶ、歴史上最も重要な経済学者の一人として位置づけられている」。

ところが、米国でのケインズ経済学への熱狂は、わずかの期間しか続きませんでした。

ケインズ政策ベトナム戦争とは無関係ではない。戦争が引き起こした不均衡はケインジアンの実験のリズムを狂わせた。つまり、ジョンソン大統領は、すでにはじまっていた力強い経済の拡張と野心的な「偉大な社会」計画に大幅な軍事支出を加え、経済の供給力を上回る過大な需要を発生させたのだった。その結果は、十年以上に及ぶインフレ経済だった。
実のところ、ジョンソンの対外政策が引き起こした緊張は、ケインジアン的な政策によって解決可能だった。例えば、増加した軍事支出に見合う政府支出の削減や追加政府支出に見合う増税を行い、民間から購買力を吸い上げればよい。 ジョンソン政権の経済顧問は大統領にこれら不人気な政策をとるように進言したが、ベトナム戦争に政治生命を賭けていたジョンソン大統領は、それを拒否した。こうして経済的困難が広がるにつれて、学界でのケインズ経済学の評価もしだいに傷ついていった。ケインズの時代は、まさにその絶頂期に歴史の一部となったのだ。現在、経済学者の間で経済の動きを説明する基本モデルをめぐって繰り広げられている論争を目の当たりにすると、元60年代前半に支配的だった経済学者たちのコンセンサスと頑固なまでの信頼感に、ある種の郷愁を禁じえない。それはまさに、キャメロット(円卓の騎士)伝説にもたとえるべき、ほんの短い輝ける瞬間だった。*3

リーマン・ショック発生時には4兆元の大規模経済対策を打ち出した中国以外の国々では必ずしも正しい経済政策を経済学者らが直ちには提示できず、2008年11月にはロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)新校舎の落成式に出席したエリザベス女王は、居並ぶ経済学の世界的権威を前に「なぜ誰も危機が来ることが解らなかったのでしょうか。」という極めて率直な質問を投げかけたとか。 

また2011年4月、オバマ政権での国家経済委員会委員長を辞任したばかりのローレンスサマーズは、「今回の危機によりマクロ経済学と金融理論が経済の現実と乖離しているか」と問われ、「第二次大戦後、正統派経済理論の『膨大な体系』が構築されてきたが、危機対応については、まるで役に立たなかった」と述べたとのことです。

危機最中にサマーズ氏はまず緊急対策の指針を、ミンスキーという名の余り有名ではない経済学者の貨幣経済理論に求め、危機が急性期を過ぎるとサマーズ氏は中期的経済対応をケインズに求めたとか。 

世界経済は今もギリシャ問題やフラジャイル5と呼ばれる新興国の経済の不安定さなどの不安要因を抱えています。 というより、不安の種がない時代の方が珍しいのではないでしょうか。

そう考えると、現在のアメリカが、主流派経済学者ではないイエレン氏をFRB議長に選出していることは偶然ではないのかもしれません。

また「均衡予算という常識」に囚われたままの安倍首相が主導する消費税付きアベノミクスでは、日本でケネディ時代のような経済的熱狂の時代がやってくるのは夢のまた夢のように、私には思えます。

*1:「誰がケインズを殺したか」 W・カール・ビブン 斎藤精一郎訳 第4章より

*2:同上

*3:同上