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江戸時代の「財政ファイナンス」で何が起きたか

 政府・日銀はこの2,3年内でのデフレ脱却を目指し、三本の矢、アベノミクスと称していくつもの政策を打ち出しています。現在のところ、5月の消費者物価指数(CPI、2010年=100)は生鮮食品を除くベースで100.0となり、前年同月に比べ横ばいまで上がってきましたが、目標とする2%まではまだまだの状況です。*1

 80年前の昭和恐慌での激しいデフレ局面では、金本位制離脱と高橋財政により短期間で脱却したことについては何回か取り上げました。 今回は江戸時代前半の二度に亘るデフレ脱却について考えてみます。

【1】徳川綱吉時代
元禄年間初期、5代将軍徳川綱吉の時代は、各地からの金産出量低下によりややデフレ経済気味でした。*2 これに加えて綱吉の浪費もあり、徳川幕府始まって以来の財政難となりました。

 綱吉は左右の者に、状況打開の手段はないかと諮問されました。 一同より勘定吟味役荻原重秀が進み出て、「御社参のうえに御上洛ありても御物入りに手支えあるまじき愚案あり」(一度に十万両単位で出費が嵩む東照宮参詣のうえ、京上洛を行なっても予算に問題が生じない「愚案」があります)と答えたとのことです。*3

実際実施したことは元禄8年(1695年)に切れ金・軽目金(流通により量目が減った小判)対策と称し、金含有量15.3gの慶長小判を同10.2gの元禄小判と交換することでした。小判の金含有量を15gから10gに落としたことで幕府に500万両の出目(通貨発行益)がもたらされました。 ただし、当然ながら、当初は世の評判は散々でした。

折角もたらされた莫大な通貨発行益でしたが綱吉はその後15年間ほどの在位中に、この出目を浪費によりそっくり使いきってしまいました。

その結果何が起きたかといえば、「元禄に金銀ふえたるより、人々侈りますます盛んになり、田舎までも商人行きわたり、諸色を用ゆる人ますます多く」なり*4世は好景気に沸き立ち、元禄文化の花が開花したのでした。 

     [関連エントリー]  アベノミクスと元禄文化の関係 - シェイブテイル日記 アベノミクスと元禄文化の関係 - シェイブテイル日記

【2】荻原重秀・新井白石の通貨論争
 その後、7代家継時代には経済官僚・荻原重秀と新井白石の間で通貨論争が勃発しました。

 荻原重秀は「例え瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめれば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり。」と、現代の管理通貨制度の考え方に通ずるとも言える斬新な意見を述べました。 

ところが、新井白石はこの意見を一顧だにせず、正徳4年(1714年)には小判の金品位を上げて、慶長小判(金含有量15.3g)とほぼ同じという高品位の正徳小判(金含有量15.0g)を発行します。

正徳の治と呼ばれる政策の中の、この通貨改鋳による高品位化政策の後、白石デフレとも言うべき経済沈滞がもたらされています。

【3】徳川吉宗時代前期
 亨保元年(1716年)に8代将軍となった吉宗は、その初期には享保の改革とよばれる政策で新井白石の政策の多くを廃止したものの、経済政策は概ねそれを踏襲し、緊縮財政政策を採りました。

 広く民間から意見を受けるための目安箱には、浪人山下幸内からの直訴があり、その中で「将軍が金を貯め、抱えこんだら下々の生活は成り立たない。紀州一国を治めているのとはわけが違う」という批判しています。 

【4】徳川吉宗時代後期
 米の増産率が人口増加率を上回るという需給状況もあって、デフレ経済が続いていました。
 幕臣たちは、金銀貨の改鋳による通貨量の拡大を幾度となく進言し、元文元年(1736)に至りようやく、改鋳が決断されました。

 元文の改鋳に当たって徳川幕府では、改鋳差益の獲得を狙いとした元禄・宝永の改鋳とは異なり、改鋳差益の収得を犠牲にする一方で、新貨の流通促進に重点を置きます。

元文小判1枚の金含有量は8.3gと、享保小判(15.3g含有)の半分程度に引き下げられましたが、新旧貨幣の交換に際しては旧小判1両=新小判1.65両というかたちで増歩(ましぶ)交換を行う一方、新古金銀は1対1の等価通用としました。

この結果、旧金貨保有者にとっては、旧貨をそのまま交換手段として利用するよりも、増歩のえられる新金貨に交換のうえ利用するほうがはるかに有利となりました。
 こうした増歩交換政策の実施が功を奏し、徳川幕府が期待したとおり新金貨との交換が急速に進み、貨幣流通量は改鋳前との比較において約40%増大しました。この貨幣供給量の増加は物価の急上昇をもたらし、深刻なデフレ下にあった日本経済に「干天の慈雨」のような恵みを与えました。例えば大坂の米価は、改鋳直後の元文元年から同5年までの5年間で2倍にまで騰貴するなど、徳川幕府の企図したとおりの物価上昇がみられました。

 こうしたなかで経済情勢も好転し、元文期に制定された金銀貨は、その後80年もの間、安定的に流通しました。
 この間幕府財政は、相対米価の上昇、年貢の増徴のほか、貨幣流通量増加の一部が改鋳差益として流入したこともあって大きく改善しました。

この傾向は宝暦期後半(1760年代はじめ)まで続き、元文の改鋳は、日本経済に好影響をもたらしたと積極的に評価される数少ない改鋳です。 *5  

このような江戸時代前半の経済政策を現代の金融財政政策に置き換えてみるとどうなるでしょうか。

徳川綱吉時代の元禄の改鋳【1】は、中央銀行でマネーを増発することによりそれをそっくりそのまま政府支出財源として使いきったような状態で、その結果は未曾有の好況(元禄文化の時代)となっています。

新井白石が荻原重秀の言説を容れず、高品位通貨発行にこだわった正徳の改鋳【2】では、中央銀行保有する資産を売り切って、民間からマネーを回収した状態に相当し、「通貨の信認」は回復したかもしれませんが、実体経済ではデフレ経済がもたらされています。 

徳川吉宗初期の享保の改革【3】は倹約と増税と、新田開発などの政策であり、これらは財政再建策と潜在成長率を引き上げる成長戦略に相当します。
これらによって幕府の財政は安定化したものの、人口の伸びは止まり、一揆は増加し、幕府の権威は却って落ちています。

享保の改革を批判した山下幸内(上述)はもしかすると通貨発行権を持つ中央政府と持たない家計や地方政府の違いを漠然とながらも認識していたのかもしれません。

徳川吉宗時代後期の元文の改鋳【4】は、中央銀行が増発したマネーを、政府支出として使うのではなく、民間に配って、民間消費を活性化したことに相当します。

【2】、【3】のような緊縮策、財政再建策、供給を増やす成長戦略はデフレ脱却には効かず、却って悪化させ、【1】、【4】のように中央銀行が増発したマネーを政府支出か民間消費・設備投資に活用する政策こそデフレ脱却に効く、ということですね。

 ただ、現代日本では【1】や【4】のようなデフレ脱却に有効な政策を「財政ファイナンス」と呼んであたかも禁じ手のように論じ貶めたい人々が、政界・学会・一部エコノミスト・マスコミにはびこり、緊縮財政・財政再建・成長戦略などを説いています。

 江戸時代では幕府の決断ひとつでできたデフレ脱却が、現代日本ではなかなか一気に進まない理由として、最も有効な財政ファイナンスに封印しようとする、これらの根拠のないプロパガンダ教条主義もあるように思われます。

*1:日経新聞2013年6月29日朝刊

*2:村井淳志「勘定奉行荻原重秀の生涯」p123

*3:佐藤雅美「江戸の税と通貨」p15

*4:荻生徂徠「政談」

*5:[http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_27.htm:title=貨幣の散歩道
第27話 米将軍吉宗と元文の改鋳]