シェイブテイル日記2

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日本人と朱子学

現在NHK大河ドラマでは黒田官兵衛をやっていますね。
官兵衛が生きた戦国時代は下克上の時であり、人の言いなりで済ますようでは上も下も文字通り生きていけない時代でした。

そうした時代には、人生わずか50年と言われた平均余命、平均寿命ならわずかに30年未満という同時代人の中から、官兵衛、竹中半兵衛どころか、武田信玄上杉謙信そして織田信長豊臣秀吉徳川家康といった戦略をあやつる戦国大名達も出現しています。

ということは、出る杭は打たれないように、KYと思われてはならないといった現代日本人の特性は、単一民族日本人のDNAに由来するわけではなく、その後江戸時代以降の後天的に形成されたもの、と考えてよさそうです。

現代日本人が、どうしても上目線の組織人となりがちで、空気に流されてしまう状況については、元JFEホールディングス社長で次期東京電力会長に内定している數土 文夫(すどふみお)氏は、徳川幕府幕藩体制を維持するための政策に端を発するとしています。*1

後天的と考えられる、日本人の上下関係、空気を大切にし、人の前にしゃしゃり出ない「徳」を教えたのは、藤原惺窩(せいか)(1561〜1619)の門人だった林羅山(1583〜1657)です。*2

林羅山の唱える朱子学の根本は、「万事万物はすべて理と気とからなる(理気二元論)。理とは,万物の存在の根拠・始源, 気とは万物を構成する物質・質料である。」とし、羅山はこの理(天理)を「天は尊く地は卑し、天は高く地は低し。上下差別あるごとく、人にも又君は尊く、臣は卑しきぞ」という考え方、「上下定分の理」 としました。

要するに孔子が説く儒学を歪めた、「気体は上に、土は下に下るのが当たり前のように、士族は上に、農工商は下で自分の分を守れ。」という理屈の朱子学を広めたということでしょう。

この身分固定に好都合な理屈から、林羅山江戸幕府に重用され、1632年、上野忍ヶ丘孔子廟を建てます。これがのちにこれが湯島聖堂、いわゆる昌平坂学問所になります。  さらに1635年には武家諸法度を起草します。

昌平坂学問所はその後も日本の学問の頂点、東大の前身となり、今日に至っています。

日本での「教育」とは、例えば帰国子女が学校で「日本語の"はい"は英語では?という問いに"Sure."と書いたらペケを食らった」、という話が世間に伝わっているように、文科省が決めたことを覚えることが全てであり、個人の考え方を伸ばすなどという世界標準からはかけ離れています。

 こうした教育体系では、ネット上での他人の批判だけは大得意という人々は掃いて捨てるほど居ても、ある公的な主題について異なる立場に分かれ議論する、いわゆるディベートというものを知る人がまず少なく、更にディベートを自ら進んでしようとする人たちはネット上でさえ、わずかしかいないというのもある程度は致し方ないとも言えましょう。

*1:President誌2014.03.03号 p31

*2:りんりん,倫理のぺーじ:朱子学より

さあ、ディベートをしましょう!

ディベート」というのはウィキペディアでも指摘されているように、日本では広義・狭義いくつかの意味合いで使われています。

ディベート(debate)とは、ある公的な主題について異なる立場に分かれ議論することをいう(広義のディベート)。討論(会)とも呼ばれている。

ディベートは、厳密にはディスカッション(discussion)や単なる議論とは異なるものであるが、一般にはこれらの区別なく「ディベート」ないし「討論」と呼ばれることが多い(最広義のディベート)。この語法は既に定着している感すらあるが、誤った使い方であるとの見方も根強い。

様々な教育目的のために行われる教育ディベート(academic debate)が、単に「ディベート」と呼ばれることもある(狭義のディベート)。特に、教育ディベート関係者の間では、「ディベート」といえば通常は教育ディベートを指す。

教育ディベートでは、その多くが説得力を競い合う競技の形で行われる。競技として行われるディベートを競技ディベート(competitive debate)という(最狭義のディベート)。多くの異なったスタイルがあり、目的に応じて選択される。

狭義の教育ディベートというのは我々日本人には馴染みが薄いのですが、今の自分の考えが白、相手が黒だとしても、それとは無関係に、自分が黒、相手は白の立場でさえ、主張を組み立てて議論したりしますが、本日は普通のディスカッションとほぼ同義の広義ディベートをみなさまと楽しみましょう。 

なぜここで普通に討論・ディスカッションしましょう、と敢えて言わないのか、といえば前述の朱子学云々との関係から、日本人は討論で空気を読むこと(組織・体系を乱さないこと)が討論自身より重視される傾向が高いため、「勝敗は敢えてつけないのが大人の日本人」といった空気()が強いためです。顔が見えないウェブ上でまで、息苦しい「朱子学的な常識」はよしましょうよw

さて本題です。
アベノミクスにより、どうやら「日本の民間にマネーを増やせばデフレ脱却して国民がハッピーになれる」というところまでは国民の常識となったようです。 問題はその達成手段です。

少し考えても、実際政府が着手しているように
A.黒田日銀のように、大量の日本国債を買い上げ、日銀券を銀行の当座預金に積み上げる
Aのバリエーションとしては、
A2.購入対象を日本国債主体からもっと多様化する もあるかもしれませんね。
B.公共投資を中心に財政政策を実施し、民間にマネーを渡す
C.年金資金、120兆円を抱えるGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の改革 


また、今の安倍政権・黒田日銀は否定的な政策としては
D.消費税が国内消費を冷やすので、消費税増税を凍結または減税する
E.国会決議を経た後、黒田日銀と安倍政権が連携して、新発国債を日銀が直接引受けして財政政策を実施する
 
もあるでしょうし、まだ書かれていない
F.その他  もあるかもしれませんね。

さて、これらの中には同時に実施可能な組み合わせもありますが、
過去の経緯も踏まえた現時点として「現代日本経済のデフレ脱却手段として、最善、つまり現実的でかつ効果的なものはどれでしょう。またその理由は?」というお題でみなさまのご意見をコメント欄にお願いしたいと思います。

ある在日エジプト人によれば、「アラブ人の常識では、間違っていてもまず自分の意見を言うのが正しい態度」だそうで。
日本経済の今後を憂える読者様には、400年近く前の「林羅山朱子学の呪い()」がかかっていないことを期待しておりますw