ふたりの大統領の大恐慌期政策の違い
衆議院選挙公示後最初の休日の昨日、野田首相が街頭演説で安倍自民党総裁のリフレ型政策を批判し、「物価だけ上げたらどうするんですか。安部さんは物価のことばかり言っている。必要なのは実質成長です。 雇用をつくっていくことです。賃金を上げることです。経済成長を作り出していくのは民主党です」と訴えたようです。
デフレ日本で成長戦略をとるためにはまずデフレ脱却が必要で、インフレ転換すれば、雇用が増えるという関係(フィリップス曲線)があることを現在の日本の首相が知らない様子であるのには驚かされます。
一国のトップがどのような政策を採るかによって、国の状況が大きく変わることはしばしばあります。
このブログではそのひとつの例である昭和恐慌期の状況(高橋財政)を何度か取り上げました。
今回は同じ大恐慌期の米国の状況を概観してみたいと思います(右上写真:左・フーヴァー大統領と右・ルーズベルト大統領)。*1
米国では、大恐慌の前の1920年代は大変な好況期で、これが次第にバブルへと変質していった時期にあたります。
【バブル形成期】
T型フォード量産、東部からフロリダへのアクセス大幅向上
(T型フォードの生産ピークは1923-25年)
1925年頃 フロリダ州 不動産ブーム(バブル前哨戦)
不動産手付証書(住宅価格の1割の価格)の1日5回転売など
(→1926年のハリケーンでブーム沈静化)
1920年代後半 個人株取引の活発化による個人電話の普及(株取引の大衆化)
証拠金取引の普及
1928年3月頃 堅調な株式相場が飛躍的上昇に変化
FRB,株式過熱抑制のため、数度にわたり金融引き締めで公定歩合は6%へ。
(→景気が翳る中での金融引締め、欧州からの資金吸い上げ)
1928年8月12日 (H・フーヴァー 共和党大会大統領候補氏名受諾演説)
「我々はなお目標には到達していないが、…、遠からずしてこの国から貧困が消え去る日が来るであろう。」
1928年末 1928年の1年で株価は35%値上がり
こうした経済活況の中、共和党のH・フーヴァーが大統領に選出されます。
【フーヴァー大統領期】
1929年3月4日 (H・フーヴァー 大統領就任演説)
「今日、われわれアメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利日に近づいている」
1929年9月3日 ダウ工業株価指数、381(これが’29年前後での最高値)
1929年10月24日 株大暴落「暗黒の木曜日」
1929年10月29日 さらなる大暴落「悲劇の火曜日」
1930年5月 フーヴァー大統領「今や最悪の時期は過ぎた。 景気は速やかに回復するだろう。」 1930年6月 米国保護主義化(スムート・ホーレイ関税法)→欧州各国報復関税措置
1931-32年 FRBの誤ったマネー回収により、紙幣払底、物々交換や地域通貨が各地で見られた。
1932年 フーヴァー大統領、財政健全化のために大幅増税
失業者、ホームレスが急増。 掘っ立て小屋(フーヴァービル)、毛布代わりの古新聞(フーヴァーブランケット)が流行
1932年7月8日 ダウ工業株価指数、41の底値
1932年11月 F・ルーズベルト大統領当選
現代の私達から見れば、フーヴァー大統領の経済音痴ぶりが手に取るように分かります。 またその経済政策に振り回されたアメリカ庶民の、フーヴァービル、フーヴァーブランケット、その他文無しを意味するフーヴァーフラッグ(裏返しのポケット)などに、当時の施策に対する怨嗟の感情も感じることができます。
【ルーズベルト大統領期】
1933年3月 ルーズベルト大統領就任。
銀行健全化策、18,400行中、5,000行を整理
1933年4月 金本位制離脱
1933年6月 預金保険制度開始
証券取引委員会(SCE)発足
銀行による投機禁止(グラス・スティーガル法) →レーガン時代以降、骨抜きに
テネシー川流域開発公社(TVA)などのニューディール政策
→財政政策を大幅拡充し、連邦財政規模を前年比2倍に
ルーズベルト大統領は、前任のフーヴァーからの「通貨切り下げはするな、増税をしろ、国債は発行するな」という「忠告」には一切耳を貸さず、短期間にほぼ逆の経済政策を打ち出すことで大恐慌を切り抜けることに成功しています。
こうしてみますと、緊縮財政・財政再建という「正義」の信奉者と、経済の実態に合わせた政策立案者とのせめぎ合いは、いつの時代にもあるものだと改めて思います。
もし好景気の際にはシェイブテイルも、フーヴァー氏や野田氏のような緊縮財政・財政再建を支持したいと思いますが、1930年代の米国だけでなく、現代日本のような経済状況下においては、どのような経済政策がふさわしいのか、ルーズベルト大統領の施策には多くの示唆が含まれているように思います。
大恐慌期のダウ工業平均株価推移
フーヴァー大統領期の1929年9月に天井をつけ、同大統領末期の1932年7月に底をつけた。
なお、本文とは指数のとり方(配当金の処理など)が若干異なっている。