シェイブテイル日記2

シェイブテイル日記をこちらに引っ越しました。

日経新聞の近世史には「元禄景気」はない?

今朝の日経新聞で、江戸時代でのリフレ政策にあたる、元禄の改鋳について記事が載っています。 ただ、その内容・結論がかなり怪しいようです

今朝(9月25日)の日経新聞に、江戸時代のリフレ政策と呼べる元禄の改鋳について載っています。

 東京・日本橋の日銀本店で、江戸時代の経済政策をテーマにした勉強会が開かれたのは6月下旬だった。

■「瓦礫も貨幣に」
 「江戸の貨幣改鋳は物価にどう影響を与えたか」。講師の阪大名誉教授、宮本又郎に質問する約20人の日銀職員。話題は、ちょうど300年前に没した元禄時代の経済官僚、荻原重秀の脱デフレ策だった。

 金(ゴールド)などの材料価値と連動する金属貨幣が当たり前だった江戸時代。徳川綱吉将軍下の元禄8年(1695年)、勘定吟味役だった荻原は金の含有量を3割減らす新小判造りを主導した。マネーの供給を増やしお金の価値を下げることで、モノの値段を上げるリフレ政策。元禄リフレで市中に出回るマネーは最大8割程度増え、デフレの重圧は解消した。

 改鋳は貨幣の改悪だ。こう批判された荻原の反論の弁が残っている。「貨幣は国家が造るもの。たとえ瓦礫(がれき)でも行うべし」。金属の産出量に経済成長が制約される金属貨幣や金本位制を「野蛮な遺物」と英経済学者ケインズが批判する約200年前。紙切れにすぎない「紙幣」を政府と中央銀行が発行・管理する現代通貨制度に似た発想が日本で生まれていた。

 もっとも、元禄リフレの結末は明るくない。金銀の含有量を減らした結果、幕府は歳出の3年半分の500万両の貨幣発行益を得た。味をしめた幕府と荻原は改鋳を度々繰り返し、インフレが高進。荻原は1712年に失脚した。

 脱デフレを狙う金融政策が、財政難にあえぐ政府の規律を緩ませる危うさは、いつの時代も変わらない。その危うさを身にしみて知っているのは、4月に異次元緩和を始めた日銀総裁黒田東彦だろう。(以下略)

  日経新聞 コラム 物価考
  江戸のケインズ マネー拡張、財政が鬼門 眠れるヒント(2)

   2013/9/25 2:00  (文中ボールド体はシェイブテイルによる)

荻原重秀といえば、旗本荻原十助種重(200俵)の次男として江戸にうまれ、徳川綱吉の世で若いころからその才能を見出されて、29歳で勘定吟味役、37歳で勘定奉行となっています。

そしてこの記事にもあるように、デフレ気味だった元禄8年、元禄の改鋳と呼ばれる貨幣改鋳を実施します。

図表1は、元禄の改鋳を推めた頃の経済状況と荻原重秀の評価(石高)を示したものです。

荻原重秀の政策への幕府の評価は常に高かった

図表1 徳川綱吉時代の経済と荻原重秀の禄高
出所:江戸時代における改鋳の歴史とその評価 大塚秀樹 日本銀行金融研究所/金融研究/1999. 9、 Wikipedia荻原重秀
青線=荻原重秀の石高。荻原重秀は正徳2年(1712年)、政敵新井白石に破れ失脚、翌年死去。1712年以降の「700石」は嫡男の石高。

図表1のように、荻原重秀は、デフレ気味だった元禄8年(1695年)に、元禄の改鋳を実施しました。この改鋳で、小判の金の量はほぼ2/3となり、幕府に500万両の出目(通貨発行益)をもたらします。この改鋳により市中におカネがまわり、いわゆる「元禄文化」が花開きます。

ところが、元禄16年、元禄地震が発生、元禄文化は終焉を迎えました。さらに翌宝永元年にも、宝永地震、富士山の宝永噴火が発生し、その対応のため、幕府財政が厳しくなりました。

この財源不足に対処するため、宝永7年、荻原重秀はやむなく再び改鋳(宝永の改鋳)を実施しました。
宝永の改鋳では品位は下げず逆に上げました。ただ、量目を元禄小判の半分にしたため、1両あたりの金は元禄小判よりも更に減りました。

宝永の改鋳は日本の生産力が落ちたところでの通貨量増でしたので、米価は8割増と高いインフレを招いています。
ただ、幕府から見れば宝永の改鋳でも500万両を超える出目をもたらした荻原重秀の功績は大きく、更に加増されています。

ところが、政敵新井白石の執拗な政治運動の結果、荻原重秀は正徳2年(1712年)権力の座を追われ、翌年失意のままに死去します。*1

財政の中心に位置した新井白石は、正徳4年(1714年)小判の品位を徳川家康時代の慶長小判なみに引き上げる正徳の改鋳を断行します。 ただその結果は「白石デフレ」とでも呼ぶべきデフレ経済となりました。

なお、新井白石の荻原重秀観で書かれた「折たく柴の記」で、死人に口なしとばかり、「荻原は26万両の賄賂を受けていた」などと根拠のない悪宣伝を繰り返し、一方的な悪評が広まってしまいましたが、現実には元禄景気をもたらした元禄の改鋳、天変地異のなか幕府財源をもたらした宝永の改鋳に比べ、「貨幣の品位を上げることこそ幕府の威光を高めるもの」というイデオロギーだけからの正徳の改鋳はデフレ経済を招いただけです。

デフレ日本が倣うとしたら、荻原重秀が実行した貨幣価値を下げる元禄の改鋳か、それとも新井白石が実行した貨幣価値を上げる正徳の改鋳か。あえて言うまでもないでしょう。

これらの史実と比べて見ると、冒頭の日経記事での荻原重秀評はいかがでしょう。
元禄景気に関する記述がひとこともあるわけではなし、日経さんまたやっちまいましたね、という気がするのはシェイブテイルひとりではないでしょう。

*1:自害したともいわれているようです。