シェイブテイルのデフレ脱却実践記

シェイブテイル日記ではデフレ経済研究を行ってきました。今後はこれをデフレ脱却実践につなげます。

アベノミクスと元禄文化の関係

安倍政権により、現在アベノミクスと呼ばれる経済政策が実施されつつあります。
このアベノミクスの中核はよく知られているようにリフレ政策です。

 現在の日本と同様に、17世紀後半の江戸時代の日本でもデフレギャップが存在していたようです。その17世紀にも、結果的にはリフレ政策といえるものが実施されました。
 その政策がどのような影響があったのかを調べることは、アベノミクスの結果を予測するのに有用でしょう。

 この政策は元禄の改鋳と呼ばれています。 
 この元禄の改鋳前後の物価を見てみましょう。 当時は物価指標は整備されておらず、大坂での米価、あるいは幕府による、旗本・御家人の俸禄米を金で支給する際の公定換算値段−これは「張紙値段」と呼ばれています−の推移を見ることで推定することになります(図1)。


図1 17世紀後半から18世紀初頭の日本の物価推移
出所:「勘定奉行荻原重秀の生涯」(村井淳志)p123表から著者作成
大坂米価(青線)と張紙値段(赤線)。 共に1671年=100とした。
張紙値段とは旗本などの俸禄米100俵(35石)当りの公定換算価格。
矢印が元禄の改鋳(1695年)。
ところどころで大坂米価が高騰しているのは凶作の年。

17世紀後半には、佐渡などからの金産出量が減り始めており、貨幣不足からややデフレ気味でした。 1671年から1695年にかけての張紙値段(旗本などの俸禄米100俵当りの公定換算価格)は年平均▲0.6%ですので、丁度平成日本の長期にわたるデフレに近い状態だったようです。 

既に寛文年間(〜1672年)には小判の鋳造を担当する金座から、小判の金含有量を減らす改鋳の建議がありましたが、当時の老中に却下されています。 しかし元禄8年(1695年)に至って、幕府財政が一層窮乏したため、当時の勘定奉行荻原重秀により元禄の改鋳が実施されました。改鋳にあたり荻原は、「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」という有名な言葉を残しており、金貨の品位は貨幣の価値に関係がないことを見ぬいており、どうやら現代の管理通貨制度下の不換紙幣に通じる貨幣観を持っていたようです。ただ、時代的に余りに斬新的過ぎて、当時はまだその考え方を理解する人はほとんどいなかったようです。

表向きの改鋳の理由については、御触書として、
(1)金銀貨に打刻された極印が年月を経て不鮮明になったこと、
(2)金・銀貨の数量が不足しているため、現行の慶長金銀を回収し、金銀の品位を直して数量不足を補うこと、とされていて、幕府財政の窮状には触れていません。

元禄改鋳により元禄小判の重量は、慶長小判の17.85グラムから変化はみられないものの、元禄小判の品位は、慶長小判の84.29%から57.36%へと3割以上減少しました。増歩、つまり交換のプレミアムとしては、改鋳当初は慶長小判100両に対して元禄小判101両すなわち1%がつけられました。 

 元禄小判は、改鋳前の慶長小判と同サイズ・同重量に改鋳されました。 しかし金品位が3割以上減少したため、密度は小さくなりましたので(金の比重は銀の約2倍)、厚みを増すことで対処されました。 また銀比率が増えることで、金銀合金の色調は白っぽくなってしまうところですが、小判を薬品に浸して焼き上げ、炭粉や塩で磨く、「色揚げ」という方法で小判表面の銀成分を飛ばして金含有量を増やすことで色目は黄金色を保ちました(図2)。


図2 慶長小判(左)と元禄小判(右)
両小判とも、縦7・4センチ、横3・9センチ、重量も両者とも17・85グラム。
厚みは密度が小さい分、元禄小判のほうが2割ほど厚い。

 結果的に、改鋳は 増歩分を差し引いても1両当り3割5分程度の改鋳益を幕府にもたらしています。
 一方、元禄の改鋳を実施した元禄8年と翌年はたまたま極度の米不作の年で、大坂米価は著しく高騰しました(図1;元禄7年143→元禄9年223)。 これが恐らく元禄の改鋳の庶民にとっての悪印象の原因となっているのでしょう。 高校教科書などでは改鋳を実施した勘定奉行、荻原重秀について、「幕府は改鋳による差益で莫大な利益を得たが、物価騰貴を引き起こし、経済を混乱させた」という記述になっています。
 ところが、先述の通り、元禄8年以前の日本は金山枯渇による通貨不足によりデフレ気味でしたから、元禄の改鋳により通貨量が増えたことで幕府財政破綻が避けられただけでなく、民間での通貨不足も解消し、経済成長が促され、いわゆる元禄文化が開花しました。 デフレでは江戸庶民も生活に余裕はなかったものが、お金のめぐりが良くなると、俳諧・文楽・歌舞伎などの芸術にもお金を使う余裕が生まれた、ということですね。

 この元禄の改鋳について、慶応大学名誉教授・速水融氏は”当時の経済には相当のデフレギャップがあったと考えられることから、貨幣改鋳は物価をさほど上昇させることなく、実質所得を上昇させる効果をもっていたものと思われる。”としています。*1

 元禄時代には物価の指標も整備されていないし、通貨量増加の動機も財政再建と、平成の現代よりも為政者には不利な状態でのリフレ政策だったと思われます。
 意識的な民間通貨量増加策はわずかに1%分の増分位でしたが、幕府収入を通貨発行益で補ったことで、結果的に政府支出を増やすこととなり、民間通貨流通量が増えたのでしょう。現代に置き換えれば、金融緩和下の公共投資増加に相当するということで、元禄の改鋳は経済環境も作用も、現代のアベノミクスによく似た経済政策だったようです。

ということは、長年のデフレの後のアベノミクスは、平成の現代に元禄の世の中のような百花繚乱の文化を咲かせることになるのかもしれません。

【ちょっと考察】
 
この当時、品位の高い慶長小判を退蔵する人は少なくなかったようです。 
丁銀のように、価値が目方で決まるのなら、わずか1%の増歩(プレミアム)で金の価値が3割以上減った貨幣を渡されても損、ということになります。
ところが、当時はデフレで、デフレギャップのおかげで貨幣が多少増えても物価は騰がらず、所得だけ増えたようです。
となると、退蔵された慶長小判は単に退蔵した者が使えなくなっただけであり、慶長小判を市中で使えば、プレミアムは慶長小判を渡された者が享受したでしょう。 結局このことに全員が気付くまで、慶長小判100両は、元禄小判101両に徐々に置換されていったのでしょうね。

なお、この考察の詳しい背景・前提は議論の前提は下記*1:日本銀行金融研究所/金融研究/1999. 9 大塚秀樹江戸時代における改鋳の歴史とその評価 p82−p83をご覧ください。

【金融史上に残るデフレの共通点についてはデフレ金融史の解剖 - デフレ金融史の解剖 - このエントリーをはてなブックマークに追加に記載しました。】

*1:日本銀行金融研究所/金融研究/1999. 9 大塚秀樹江戸時代における改鋳の歴史とその評価 p83  原文献は経済社会の成立 17‐18世紀 (日本経済史 1)速水融ら。