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高橋是清が財政再建派?

 今日のロイターに、高橋是清が実は財政規模圧縮を狙っていた、という主旨のコラムが載っています。
高橋是清財政再建派だったなんてことは聞いたこともなかったので早速読んでみました。

コラム: 高橋是清なき2012年の日本、だれが債務膨張を止めるのか
田巻 一彦
[東京 15日 ロイター] 第二次世界大戦で日本が敗北してから67年目の夏を迎えた。8月15日は「終戦記念日」となっているが、日本が敗戦という結末へと大きくカーブしたのは、1936年2月26日の二二六事件で高橋是清蔵相(当時)が暗殺された時だろう。
軍部による巨額軍事費の要求圧力を止める人物がいなくなったとき、戦争への扉が開かれた。今の日本では、軍部は存在しなくなったのに、債務残高の膨張に歯止めがかからない。高橋是清のように体を張って歳出増大を食い止める人物や機関が存在しなくなったからではないか。亡国への道をストップさせるのは、最終的にマーケットによる警鐘ではないかと指摘したい。

<高橋蔵相の日銀引き受け、最終的に91%が民間消化に>
東京港区赤坂のカナダ大使館は、旧高橋邸の敷地内にある。隣接した高橋是清翁記念公園では、今日もセミが競うように鳴いているだろう。そこで高橋蔵相は76年前、陸軍皇道派青年将校に惨殺された。
高橋是清というと、一部のリフレ派の人々は、日本国債の日銀引き受けを決めた蔵相として称賛するが、その後の高橋蔵相の政策対応をみれば、日銀引き受けを長期間実施し、インフレを起こして政府債務の実質的な価値を減少させ、債務返済を容易にさせるということを全く考えていなかったことがわかる。1932年に日銀引き受けが始まるが、その後、日銀は一定部分を民間銀行に売り戻した。
内閣府次官の松元崇氏の著作である「恐慌に立ち向かった男 高橋是清」(中公文庫)によると、高橋蔵相の在任中に発行した国債39億円のうち、日銀引き受けは86%に及んだが、そのうち91%は市中消化された。松元氏は著書の中で、日銀引き受けは「一時の便法」だと高橋蔵相が考えていたことを紹介している。

<軍事費膨張、体を張って止めた高橋蔵相>
この松元氏の著書は、明治維新から高橋是清の死までに展開された戦前・日本の財政・金融史をわかりやすく説明し、鋭い視点で分析した力作だ。そこでは、1932年の最後の蔵相就任から暗殺されるまで、高橋是清が心血を注いだのが、膨張圧力の高まる軍事費の抑制であることについて、詳細に分析している。
死の直前の予算編成になった1936年度予算案では、高橋蔵相が閣議室に世界地図を持ち込み、「対ソ戦の無益なことなどを説いて、陸軍の要求を抑えようとした」(松元氏の著書)という。蔵相在任中の32年度─36年度予算において、軍事費が経済成長率並みの伸びに抑え込まれたのは、「高橋蔵相による厳しい抑制方針の結果だった」と松元氏は指摘している。

シェイブテイルはこのコラムで紹介されている松元氏の著書は読んでいませんので、あくまでもこのコラムに関して書きます。
結論から言いますと、コラムニスト田巻氏は高橋財政をよく理解されていないと思います。

 高橋是清は、デフレ脱却後亡くなる2・26事件までの期間については、軍費膨張に強い懸念を持ち、それを表明もしていますので、コラムで書かれていることは正しいと思います。また、一旦日銀に引き受けさせた国債の大半を市中消化したことも事実です。

 問題は、その前のデフレ期の高橋是清の行動(高橋財政)に関する理解です。 高橋は、日銀に国債を直接引き受けさせ、これを財源に財政政策を行ないデフレを脱却しました。 その国債の日銀引き受けは「一時の便法」と高橋是清が考えてもいたようですが、この「一時の便法」によってこそ、デフレを脱却していることをコラムニスト氏は見落としています。 この見落としはこのコラムニスト氏だけではなく、例えば池尾和人氏はこちらでほぼ同じ主旨のことを書かれていますし、東大の岩本康志教授は、こちらで、国債の日銀引き受けをさせても、引き受けさせた国債を日銀が国債保有高を永続的に増やさない限り、量的緩和解除時に行って来いになり、財源にはならないと述べています。 確かに日銀から借り入れた資金は早晩返済されねばなりませんが、返済までの間にデフレを脱却すれば、行って来いでは全くないことが見落とされています。

デフレだからこそ、実質金利は高まり、個別の投資案件についてもリスクが高まるため、銀行貸出は低迷していますが、国債の日銀引き受けなど何らかの手段でデフレを脱却してしまえば、実質金利が下がり、個別の投資案件のリスクが下がり、銀行貸出すべき対象は多数出現するので、日銀引受けによるマネーを返済してしまっても、市中には十分マネーが巡るわけです。

 そもそも、高橋財政が行われた時期には国債の市中発行自身が相当困難となっている時期であり、*1、そういう意味での「一時の便法」としての日銀国債引き受けだったとは言えるでしょう。
 
高橋蔵相は、80年前の昭和恐慌デフレ期には国債の日銀引き受けといった非常手段を採ってでもインフレ転換させるべきと考え、その政策の効果で一旦インフレ転換してしまえば、もはや国債の日銀引き受けというインフレ転換策は有害無益ですから、日銀に引き受けさせた国債を市中に放出・消化することが正常化への道と判断したということでしょう。 要するに、高橋蔵相は置かれた経済環境ごとに最適な手段を熟知した名蔵相なのであって、コラムニスト氏が想像するような、デフレ期を含めて闇雲に緊縮財政を目指す財政再建派蔵相だったわけではないのです。


昭和26年発行50円札の高橋是清