シェイブテイル日記2

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サルでもわかる水と金の価値の違い

今日は 「価値」というものについて検討してみたいと思います。
 水を飲めばおいしい、リンゴも食べればおいしい。これらはサルでも十分わかる価値です。
これらは生物的な価値といえるでしょう。*1は、少し考えればわかるようにそのもの自身に固有ではなく、その個体の主観であり、また喉が渇いた時の水と喉が潤った後での水でも生物学的な価値は変わるでしょう。*2

 では金やダイヤの価値はどうでしょうか。 
金・ダイヤは共に美しいですね。 また希少性もあります。
しかし、精巧な贋金(キン)、贋ダイヤはどうでしょうか。美しさでは区別がつかないからこそ精巧な贋、ですが、それらを贋だと知った途端、(主観的なものである)価値は下がります。 
考えてみると金などの貴金属の価値は、リンゴなどの価値と比べるとちょっと不思議で、美しい・永遠に錆びない・希少であるといっても、これらのうち生物としてのヒトにとって意味があるのは美しさ位でしょうか。
言っている意味がわかりづらいと思いますので、ちょっと思考実験をしましょう。 

オアシスから砂漠を歩き始めた旅人がいて、そこに天使が舞い降り、「水1キロと金1キロ。欲しいほうを差し上げましょう。」といったとしましょう。
ラクダに水タンクを積んでいる旅人はいちもにもなく金1キロを欲しがるでしょう。 ところが、旅人がオアシスを離れ広大な砂漠のど真ん中まで来て喉がからからになったところで、手違いで空の水タンクしかラクダに積んでいないことを知った時、旅人の前に同じ天使が舞い降り、「水1キロと金1キロ。欲しいほうを差し上げましょう。」と再び問えば今度は水1キロを欲しがるかもしれません。 つまり、金はオアシスのバザールにある商品と交換できる場合には価値が高いが、交換の相手が水しかない(あるいは水さえもない)状況では、金の価値は大幅に減少します。
 水と金の価値は、水が少ないときに水の生物学的価値が上がるだけで、金の価値は不変、という考え方もあるでしょう。 しかし大量の水と金しかない世界、あるいは大量の麦と金しかないを想定してみると、それらの世界では金といえどもふんだんにある1種の財としか交換できないのですから、例えば簡単に得られる麦を少量の金を交換したとしても、その金は努力しても簡単に得られる更に大量の麦と交換するのがせいぜいですから、それらの世界での金の価値とは集めて輝きを見て楽しむという以上のものではないと思えます。

 こう考えてくると、「金の価値」とはわずかな生物的価値(うつくしさ)もあるものの、それとは全く別の、水やパンなど他の商品との交換が可能である価値、いわば交換可能性が金の価値の大半といえるのではないでしょうか。
交換の相手がなくなると自らの価値が消失する。これが交換媒体、つまり貨幣としての金の価値です。

 金銀といった貴金属がなぜ貨幣として人々の間を流通していくのか、といえば、人々の間で、金銀は多くの労力やノウハウなどを投じなければ採れないことが事実として共有されているからです。
それを裏付けるのは、たとえば新大陸の銀です。
1545年にボリビアポトシ銀山が、ヨーロッパ人より発見され、原住民インディオやアフリカからつれてきた奴隷の強制労働のもと、大量の銀をヨーロッパに持ち込まれました。それまで欧州ではドイツのボヘミアザクセン・マイセン地方が銀生産の三大中心でしたが、新大陸から大量の銀が入ってくることがわかると、銀価格は暴落しました。 
銀自身をヨーロッパ人の生産力というモノサシで測ると価値が減じてしまったからです。

希少性についていえば、下のコラムのように、プラチナは金(キン)よりも大変希少な貴金属ですが、最近しばらく金よりプラチナが安い状況が続いています。 もっと極端な例で言えば、オバマ大統領の耳垢は、年数グラム取れるかどうか、地球全体での可採埋蔵量1キロにも満たないですが、全く無価値です。
金・プラチナの価格推移(青:NY金価格、赤:NYプラチナ価格)


金は有史以来、発掘された量は142,600トンで、オリンピック公式プール約3杯分相当しか存在しない希少性の高い資源です。また地中に残存する埋蔵量は、あと76,000トンしかないといわれています。工業用としても使われている金は近い将来、再利用して利用するしかなくなる時代が来るかもしれません。
プラチナ
プラチナは金以上に希少性の高い金属で、有史以来総生産量は、推定約4,165トンに過ぎず、これは一辺が6m四方の立方体の箱に納まる程度の大きさで、金の約1/34しか生産されてないことになります。
またプラチナは、遠い昔、地球に飛来した隕石によってもたらされたとの説が有力で、採掘量が限られています。今後プラチナは燃料電池など工業用の需要が増えてくる為、ますます希少性が高まると思われます。

現在の経済学者の多くは、財の量の変動により価格が変化し別の安定状態にシフトする、と考えますが、現代の商品市場を眺めても、例えば南米でエルニーニョ現象が起きたという情報が伝わった途端、商品の量が変化していないにもかかわらず、あるいは将来の商品量の変動を踏まえた金額以上に商品価格が暴騰することがしばしばあります。これは、エルニーニョ→天候不良予想→価格高騰というように、現実の財の量よりもその財を獲得するために必要な生産力、あるいはその予測が価格を決めているのだと思われます。

そこで筆者は、貨幣の価値の裏づけは、その貨幣と等価交換可能な生産力だと思うのです。

近代経済学の方からは、「へー、シェイブテイルってマルクス経済学論者か、遅れてるねー」って言われそうですが、マルクスは財の価値は投入した労働力で決定される、と上記と一見似た考え方ですが、決定的に違うのは、マルクスの価値のモノサシが、「誰が働いても1日当たり同じ価値の労働力」というものを仮定したため、1日働いて作ったトラクターよりも2日働いて作ったトラクターの方が高価、というような非効率をマルクス経済に内包してしまっていることで、上記の話とは「刷毛とハゲ」位に似て非なる価値観だと思います。

*1:ここでいう生物的な価値とは、その価値を感じている者の主観によるものですから近代経済学でいう効用と同義です。ただ、近代経済学の効用という考え方の基礎に筆者は疑問を持っているため、ここではあえて別用語を使用しています。

*2:生物学的な価値の源泉は、おそらく脳の中の快感につながるドパミン神経系(報酬系とも呼ばれる)の興奮と直結しているでしょう。