シェイブテイル日記2

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昭和恐慌のデフレをどうやって脱出したか

9月9日、日銀・白川総裁は、日銀の国債引き受けについて、次のように答弁したそうです。

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日銀による国債の直接引き受け禁止は「人類の英知」−。普段は硬い国会答弁の多い白川方明日銀総裁だが、9日の参院財政金融委員会では、日銀の国債引き受けで政府の財政出動を支援すべきだとの議論に対し、異例の文学的な表現でたしなめる場面が見られた。
 中山恭子氏(たちあがれ)への答弁。中山氏は「賢明な政府がしっかり対応すれば、(ハイパーインフレなどの)懸念を払しょくした上でデフレ克服への道が開ける」として、国債引き受けで財源を創出し、社会資本整備を進めることを訴えた。
 これに対し、白川総裁は「多くの経験を見ると、最初は問題がなくてもどこかで歯止めが利かなくなる。それが人間の社会の現実だ」と警告。日銀の国債引き受けを原則として禁じた財政法5条について「人間の弱さを自覚するが故に、あらかじめ引き受けを禁止している」と説明し、理解を求めた。
 日銀は、「百年史」の中で、戦前・戦中の国債引き受けを、政府の財政崩壊を招いた苦い経験から「本行百年の歴史における最大の失敗」と総括している。(時事ドットコム・2010/09/09-17:55)
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白川総裁は、戦前の国債引き受け日本銀行での最大の失敗と総括しているそうですが、実際はどうだったのでしょうか。

 1920年代後半、米国では株式市場がバブル化し、1929年10月24日(木)、ついにバブル崩壊の日を迎えます(暗黒の木曜日)。 日本ではこの世界恐慌の影響は日本にも波及し、昭和恐慌と呼ばれていました。
当時の先進国では自国通貨の価値を守るために金本位制をとることが主流となっていました。
日本も例外ではなく、金本位制を堅持していましたが、国内経済は現代よりも酷いデフレに苦しんでいました。
1931年(昭和6年)犬養内閣の蔵相となった高橋是清は、同年12月、金輸出再禁止(=金本位制離脱)を行い、翌32年には日銀による長期国債の引き受けを決定しました。
 この前後の経済状況を下の表にまとめてみました。
表中色分けは 寒色系()がデフレ・不景気、 緑()がマイルドインフレ・好景気、暖色系()がインフレ・好景気を示します。

 高橋財政(69%)


 おさらいになりますが、金本位制下では紙幣はいわゆる兌換紙幣であり、価値の裏付けとして金の保有が必要です。
そのため保有する金の量以上に紙幣を供給することができません。 これがデフレ圧力の原因となることから、高橋是清金本位制からの離脱を決めたわけです。
 また国債を日銀に引受させることにより、紙幣を市中に十分に供給することができるようになりました。
上の表でも、’31年までのデフレ傾向が払拭され、一転してインフレ側に転換し、同時に産業が活性化したことがわかります。 その後の4年間の高橋財政の期間は、低率のインフレと高成長が達成されました。このように高橋是清リフレーション政策は十分その意図通りの成果をあげたのでした。 
ところが、この時期の日本は軍備拡張期で、軍部は更なる資金を要求しましたが、高橋是清は軍備に対する過剰な資金供給は問題が多いとしてやや抑制気味の財政方針を示したところ、これに恨みをもった青年将校により36年高橋は暗殺されてしまいます(2・26事件)。
 その後は、国政は軍部に牛耳られるようになり、大量の通貨供給の結果’37年には物価は前年比20%の上昇を見るようになります。

要するに高橋是清が蔵相をつとめた4年間(高橋財政期)は、長期国債の日銀引き受けなどで必要十分な通貨が供給されることにより、世界にさきがけて世界大恐慌から日本が脱出した時期にあたっているのです。
それを高橋が暗殺された後の、財政の暗黒時代の主因が高橋財政にあるかのような日銀総裁の発言は歴史的事実を歪める発言と言わざるを得ません。

現代日本は過去20年に渡る不況、過去15年にわたるデフレの真っ只中にあります。
白川総裁はこのデフレに対する処方箋はもうほとんど期待できないような発言を繰り返していますが、80年前の高橋是清にできたことのマネさえもできないというのはどういうことなのでしょうか。
もし高橋財政の否定発言の真意が、これまで日銀の採ってきたデフレ容認路線が誤りだったことを認められない、というだけのことであれば、人間としてあまりに小さすぎると思いますが…。

(ちょっとだけオマケにつづきます)

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