シェイブテイル日記2

シェイブテイル日記をこちらに引っ越しました。

大昔、物々交換などなかった

 「大昔物々交換があり、その不便さを解消すべく、商品の中から変質しにくい金属などが選ばれてマネーとなった。」
 この一般人のみならず、経済学者にも堅固に信じられている「標準貨幣論」に対して、人類学などの分野からは異も出ているようです。 こうした人類学などの知見も踏まえた新しい貨幣観を見せてくれる、フェリックス・マーティンの「21世紀の貨幣論」には標準貨幣論とは全くことなるマネー観があります。

この本に出てくるヤップ島のフェイの話も私が要約すると、味わいが失われてしまいますので、第1章の一部を転載して紹介させていただきます。

ヤップ島の石貨「フェイ」
1899年、スペインはヤップ島を330万ドルでドイツに売却した。
ヤップ島のドイツ帝国への併合には、ある大きな成果があった。若く、才気にあふれ、冒険好きな一風変わったアメリカ人、ウィリアム・へンリー・ファーネス3世がヤップ島を訪れ、歴史的に見てきわめて興味深い独自のマネーシステムを、世界が知ることになったのである。…。
ヤップ島には経済があることはあったが、発展していたとはとても言えない。市場で取引されていた商品は三つだけだった。魚、ヤシの実、そしてヤップ唯一のぜいたく品であるナマコだ。交換の対象となる商品は他にこれといってなかった。農業は行われていなかった。美術品も手工芸品もほとんどない。家畜はブタだけ。ドイツ人がやってきてからは、これに数匹のネコが加わった。島の外の人間とは、接触も交易も、ほとんどなかった。ここまで単純で、外界と隔絶した経済はそうそうないだろう。
ヤップ島はこうした原初的な状況にあったので、単純な物々交換よりも進んだものが見つかるとは、ファーネスは予想していなかった。実際、ファーネスが考察したように、「食べ物、飲み物はもちろん、着る物までも木になっていて、それを採ればこと足りそうな土地では」、物々交換さえ発展する必要がなかったとも考えられた。

ところが、ファーネスの読みは完全に外れる。ヤップ島には高度に発達したマネーシステムがあったのだ。ファーネスは、島に足を踏み入れた瞬間に、それに気づいた。気がつかないわけがない。なぜなら、ヤップ島の硬貨は他に類を見ないものだったからだ。ヤップ島の硬貨は「フェイ」と呼ばれた。「大きく、堅く、厚い石でできた車輪のような形をしている。大きさは、直径30センチくらいのものから、4メートル弱もあるものまで、さまざまである。石の真ん中には穴が開いている。穴の大きさは石の直径によって変わる。石の重さに耐えられるだけの長さと強さがある棒をその穴に差し込むことで、持ち運べるようになっている」。
この石貨はパラオから300マイル(約480キロ)離れたバベルタオブ島で切り出されたもので、ほとんどがヤップ島に運ばれたと古くから伝えられていた。石貨の価値は主に大きさで決まったが、粒子の細かさ、石灰石の白さも評価の基準になった。
ファーネスは最初、この奇妙な形をした石は、非常に扱いにくいものなのにマネーとして選ばれたのではなく、扱いにくいからこそ選ばれたのではないかと考えた。「ブタ1頭分のお金を盗むのに、四人の屈強な男たちの手が必要になるとなれば、フェイを盗もうという気がうせるのも当然だろう」と、ファーネスは推測する。「当然ながら、フェイが盗まれたという話はほとんど聞かれない」。
しかし、ファーネスがその後に気づいたように、フェイがある家から別の家に運ばれることは本当にまれだった。取引は盛んに行われるが、取引から生まれる債務は取引の相手との問で相殺されるのがふつうだった。相殺後に残った分は繰り越されて、次の交換に使うことができた。未払い分を清算しなければならないようなときでも、フェイそのものが交換されることはめったになかった。
この石貨には特筆すべき特徴がある。それは石貨の持ち主は石貨を所有していなくてもいいということだ。簡単には運べないほど大きなフェイが必要な高額の取引が成立すると、フェイの新しい所有者は、自分の所有権が承認されるだけで満足する。交換したことを示す印を石貨につけることもなく、前の持ち主の土地にそのまま置かれている。

海の底に沈んだフェイ
ヤップ島のマネーシステムのこうした側面にファーネスが驚くと、島の案内投はさらに驚くような話をした。

村の近くに住むある家族は莫大な財産を持っていた。それは村のだれもが認めていたが、だれ一人として、その財産を実際に見たり、触ったりしたことがなかった。当の家族でさえそうだった。
この財産とは、巨大なフェイだった。その大きさは伝承で伝えられているだけだ。ニ三世代前からずっとこのフェイは海の底に沈んでいたのだ!

このフェイはその昔、バベルタオブ島から運んでいるときに嵐にあって、海中に沈んだのだという。フェイを運んでいた者たちからそう聞かされた島民は、みんなその話を受け入れた。
フェイが海に消えてしまったのは事故でしかなく、それを言ったところでどうにもならない。海岸から数百フィート(10キロ前後)沖に沈んでいるからといってフェイの市場価値が損なわれることはない…

こうしてその石貨は、あたかも持ち主の家の壁に立てかけられているかのように資産として有効であると認められており、購買力をずっと持ち続けている。財産としてのフェイの価値は、中世の吝嗇家が相場の値下がりでため込んだ金や、ワシントンの財務省に貯蔵されている1ドル硬貨のようなものかもしれない。目で見たり、手で触れたりすることはないが、それがそこにあるという証書を根拠に取引されている。

本が1910年に出版されたときには、この一風変わった旅行記が経済学者の目にとまることなどないだろうと思われた。しかしやがて、イギリスの王立経済学会が発行するエコノミック・ジャーナル誌の編集者たちのところにたどり着き、ケンブリッジ大学のある若手経済学者の手に渡った。その学者はイギリス大蔵省の顧問に就任して戦費調達に協力し始めたところだった。その人こそ、その後の20年間にマネーと金融の理論に革命を起こすジョン・メイナード・ケインズである。
ファーネスの本は「通貨について、おそらく他のどの国よりも哲学的な思想を持つ人々がいることを私たちに教えてくれた。ヤップ島の慣行は現代の金本位制度よりも論理的であり、学ぶことは大いにある」と、ケインズは書いている。20世紀の最も偉大な経済学者がなぜ、ヤップ島のマネーシステムにこのような重要で普遍的な教訓を見出したのか。それが本書のテーマである。

標準的な貨幣論の過ち
マネーとは何か。マネーはどのようにして生まれたのか。
数年前、私は酒の席で、この二つの問いを古くからの友人に投げかけた。この友は金融サービス業界で成功した起業家だ。友人は次のような聞きなれた話を返してきた。

マネーが生まれた理由
古代には、お金はなかった。人々は物々交換でモノのやりとりをしていた。自分が作らない何かが必要なときには、それを持っていて、自分が作るモノと取り替えてもいいと言ってくれるだれかを見つけなければいけなかった。もちろん、物々交換という制度には問題があった。
とても効率が悪いのだ。自分が欲しいモノを持っていて、かつ、自分の持っているモノを欲しがっている人を見つけなければならない。しかも二人が同時にそう考えていなければならない。
やがて、あるモノを選んで「交換の手段」にするという考えが生まれた。理屈上は、支払手段として広く一般に受け入れられるものなら、何を選んでもよかった。しかし実際には、金と銀が選ばれることが多い。耐久性があり、加工しやすく、持ち運びもできて、希少だからだ。
いずれにしても、交換の手段として選ばれたものは、それが何であっても、それ自体が価値のあるものとして取引されるだけでなく、他のものを買ったり、将来のために富を蓄えたりすることに使えるようになった。要するに、このモノがお金であり、マネーはこのようにして生まれたのである。

これは明快で説得力のあるストーリーだ。そしてこれはマネーの本質と起源に関して古代から唱えられている由緒正しい学説なのである。アリストテレスの 『政治学』 にそう書かれている。この間題を扱ったものとしては、西欧諸国の重要な書物の中で最も古い例だ。古典的な政治的自由主義の父、ジョン・ロックは著書『統治二論』でこの説を提示している。あのアダム・スミスも、現代経済学の基本書である『国富論』 の 「通貨の起源と利用」という章で、これとほとんど同じ主張を展開しているのである。
しかし、分業が起こり始めた時点では、このような交換にかなりの障害があったはずだ……肉屋が、自分が必要とする以上の肉を店に持っており、酒屋とパン屋がその一部を手に入れたがっているとする。酒屋もパン屋もそれぞれの仕事で生産したものしか持っておらず、肉屋が当面必要な量のビールとパンを持っていれば、互いの商品を交換することはできない……このような状態から生まれる不便を避けるために、分業が確立した後、どの時代にも賢明な人はみな、自分の仕事で生産したもの以外に、他人が各自の生産物と交換するのを断らないと思える商品をある程度持っておく方法をとったはずである。
どの商品が貨幣として選ばれるのかについての不可知論的な主張まで、友人とうりふたつだった。
この目的には、さまざまな商品がつぎつぎに考えられ、使われてきたと見られる。未開の社会では、家畜が交換のための共通の手段であったと言われている……エチオピアでは塩が交換のための共通の手段として使われているという。インド沿岸部の一部ではある種の貝殻が、ニューファンドランド島ではタラの干物が、バージニアではタバコが、西インド諸島のイギリス植民地の一部では砂糖が交換の手段として使われており、生皮やなめし皮が使われている国もある。スコットランドの村では現在も、職人が金銭の代わりに釘をパン屋や居酒屋の支払いにあてることが珍しくないという。
そして、スミスもまた、金や銀などの金属が貨幣に選ばれるのは理屈にかなっていると考えていた。
しかしどの国でも、否定のしようのない理由によって、この目的にはやがて、どの商品よりも金属が選ばれるようになったと見られる。金属ほど腐りにくいものはほとんどないので、どの商品よりも保存による損失が少ない。そのうえ、どれだけ分割しても価値が下がることはなく、溶解すれば分割したものを一つにまとめられるという性質があるこの性質は、同じように保存が利く他の商品にないものであり、金属が商業と流通の手段に適しているのは、何よりもこの性質のためである。

偉大な経済学者と同じ結論にたどり着く
 これはすごいことだ。友人は経済学を学んだことがない。その彼が、偉大なるアダム・スミスと同じ理論にたどり着いていたのだ。それだけではない。マネーの起源と本質に関するこの説は、プトレマイオスの天動説のような好奇心をかきたてる歴史上のエピソードではおさまらない。天動説は新しい学説に取って代わられた時代後れの仮説にすぎないが、この貨幣論は、いまでも経済学の主流の教科書にほぼ例外なく載っているのである。
さらに、この説の基本的な考え方は、マネーをめぐる疑問についての詳細な理論研究や実証研究の基礎にもなっている。
過去60年間、この説を前提として、マネーをめぐる研究は大きく進んだ。経済学者は、高度な数理モデルを構築し、なぜある商品がマネーとして選ばれるのか、人々はそれをどれくらい保有したいと思うのかといった、そのものずばりという問題を探究しているし、マネーの価値と利用に関するあらゆる側面を説明するおびただしい数の分析ツールを生み出している。そしてそれが、経済学の一つの分野である「マクロ経済学」の基盤になっている。

マクロ経済学は、好況と不況はどうして起こるのかを解き明かし、このいわゆる景気循環金利や政府支出をうまく管理して抑える方法を提言しようとするものだ。
つまり、私の友人が唱えた説は、歴史に裏付けられていたばかりか、標蜂的な貨幣論として、一般人、専門家を問わず、いまも大きな影響力を持っているのである。
これには友人も喜びを隠しきれない様子だった。
「確かにおれば頭がいい。」もちろん、自分で言うのも何だが、と付け加えるのも忘れない。
「それでも、経済学の素人であるおれが、こんなこと今日まで考えてもみなかったのに、偉大な経済学者と同じ結論に達することができたなんて夢みたいだ。おまえはこう考えているんじゃないか。経済学の学位を取るために何年も勉強してきたのに、あの時間は無駄だったんじゃないかって。」
確かに、これはちょっと困ったことだった。しかしそれは、友人が経済学の訓練を受けないでこの説にたどり着いていたからではない。まったく逆だ。問題は、経済学の訓練を何年も受けてきた人たちがこの説をうのみにしていることなのだ。 この説は明快で、直感的に理解できるかもしれない。だが、現代の標準的な貨幣論には欠陥がある。この学説は完全にまちがっているのだ。

石器時代の経済学?
ジョン.メイナード・ケインズの見立ては正しかった。ウィリアム・へンリー・ファーネスが伝えるヤップの不思議な石貨の話は、一見すると貨幣の歴史に一興を添える脚注にすぎないように思えるだろう。この話はしかし、標準的な貨幣論に厄介な疑問を投げかけている。

物々交換経済は本当にあったのか?
貨幣は物々交換から生まれたという説を例にあげよう。アリストテレス、ロック、スミスがそう主張していたとき、三人は演繹的な推論だけで答えを導き出していた。物々交換だけで成り立っている経済を実際に目にした者は一人もいなかった。それでも、物々交換経済がかつては存在していたかもしれないというのは、いかにもありそうに思えた。物々交換経済が存在していたのなら、それがあまりにも不便なので、もっと便利なやり方を考え出そうとしていた人がいただろうというのも、いかにもありそうに思えた。
この文脈に照らせば、ヤップ島にマネーシステムがあるのは驚くべきことだった。理屈としては、経済がこれほど単純なら、物々交換で運営されていていいはずである。ところがそうはなっていない。ヤップ島には高度に発達した貨幣と通貨の仕組みがあった。これは特異な例だ。しかし、こうした原始的な経済にすでに貨幣が使われていたのだとしたら、物々交換経済はいつ、どこで見つかるのだろう。
ファーネスのヤップ旅行記が出版されてから一世紀の間、この疑問は研究者たちを悩ませ続けた。歴史的な証拠、民族学的な証拠が積み上がっていくと、ヤップはますますアノマリーには見えなくなった。研究者たちは物々交換で取引をしている社会を探したのだが、歴史上にも、同時代にも、そうした社会を見つけることができなかった。
1980年代になると、貨幣を研究する有力な人類学者たちが審判を下そうと考えた。「われわれが信頼できる情報を持っている過去の、あるいは現在の経済制度で、貨幣を使わない市場交換という厳密な意味での物々交換が、量的に重要な方法であったり、最も有力な方法であったりしたことは一度もない。」アメリカの経済人類学者、ジョージ・ドルトンは1982年にこう書いている。
「物々交換から貨幣が生まれたという事例はもちろんのこと、純粋で単純な物々交換経済の事例さえ、どこにも記されていない。手に入れることができるすべての民族誌を見るかぎり、そうしたものはこれまでに一つもない」。ケンブリッジ大学の人類学者であるキャロライン・ハンフリーはこのように結論づけている。
このニュースは、進取の気性に富む経済学の非主流派にも広まり始めた。たとえば、アメリカの高名な経済史家であるチャールズ・キンドルバーガーは、1993年に刊行した『西欧金融史』第二版でこう記している。「経済史家はことあるごとに、経済取引は自然経済や物々交換経済から貨幣経済を経て、最終的に信用経済へと進化してきたと唱え続けている。1864年には、経済学のドイツ歴史学派のブルーノ・ヒルデプラントがこうした見方を示した。残念ながら、それはまちがっている。」
21世紀初めには、実証的証拠に関心を持つ学者の間で、物々交換から貨幣が生まれたという従来の考え方はまちかっているというコンセンサスができあがっていた。経済学の世界ではこれは珍しいことである。人類学者のデビッド・グレーバーは2011年に次のように冷ややかに説明している。「そうしたことが起きたという証拠は一つもなく、そうしたことが起きなかったことを示唆する証拠は山ほどある。」

マネーは「モノ」か
ところが、ヤップ島の話はマネーの起源に関する標準的な学説に異議を唱えるだけではない。「マネーとはいったい何であるのかこという貨幣論の概念に大きな疑問を投げかけてもいる。標準的な貨幣論では、マネーは「モノ」だとされる。つまり、商品世界の中から交換の手段とするために選ばれた商品だということだ。
また、貨幣交換の本質は、この商品を媒介として財やサービスを交換し合うことだとされる。しかし、ヤップの石貨はこの枠組みにあてはまらない。何よりもまず、だれかが「大きく、堅く、厚く、車輪のような形をしていて、直径50センチくらいのものから、4メートル弱もあるものまで、さまざまな大きさをした石」を交換の手段として選んだとは考えにくい。こうした石を移動させるのは、どう見ても、取引されるモノを移動させるよりもずっとむずかしかっただろう。
だが、それ以上に悩ましいことがある。フェイは、他のどんな商品とも交換できる商品という意味での交換の手段でないことは明らかだった。フェイが交換されることはほとんどなかった。実際、あの海の底に沈んでいるフェイの場合、その石貨が交換の手段として譲渡されているところを見た人はもちろん、石貨自体を見たことがある人さえいなかった。石貨が本当にあるのかどうか、だれ一人として疑わなかった。ヤップの島民は、フェイそのものには不思議なくらい関心がなかったのだ。ヤップ島のマネーシステムの本質は、石貨が交換の手段として使われていたことではなく、何か他のことにあった。
交換の手段として選ばれた商品についてのアダム・スミスの話を少し深く考えてみると、ヤップの島民はマネーとは何であるかを見抜いていたことがわかる。スミスは、さまざまな時代、さまざまな場所で、さまざまな商品が貨幣として選ばれていたとしている。ニューファンドランド島ではタラの干物が、バージニアではタバコが、西インド諸島では砂糖が交換の手段として使われていたという。スコットランドにいたっては釘が使われている。
しかし、スミスの 『国富論』 が刊行されてから一〜二世代も経たないうちに、こうした例の一部について、それが本当に妥当なのか、疑いの目が向けられるようになった。
たとえば、アメリカの資本家、トーマス・スミスは1832年に発表した「通貨と銀行業に関する評論」 の中で、スミスはこうした話が商品が交換の手段として使われていた証拠だと考えたが、実際にはそのようなものではないと断じている。どれも、現代のイギリスで言えば、ポンド、シリング、ペンス建てで取引が行われていた例なのである。売り手は債権を、買い手は債務を帳簿につけていく。債権や債務はすべて貨幣単位で表示される。その後、債権と債務を相殺し、相殺しきれなかった分があれば、債務の額に見合う価値のある商品などで支払って清算することになる。これではその商品は「貨幣」とは言えない。商品による支払いたけを見て、その背景にあるシステム、つまり、信用取引をしてそれを清算するシステムを見なければ、物事を完全に見誤ってしまう。そのために、商品そのものが貨幣だったというスミスと同じ立場をとることは、最初は理にかなっているように見えるかもしれないが、最後には意味をなさなくなる。
マネーの本質に関する隠れた名著論文を二つ書いているアルフレッド・ミッチェル・インネスは、ニューファンドランド島のタラの干物貨幣に関するスミスの考察が抱える問題点を、言い回しこそぶしつけだが、的確にまとめている。

少し考えると、日常必需品を貨幣として使うのは不可能であることがわかる。仮説から交換の手段は共同体のだれもが受け取れるものでなければならない。そのため、漁師が必需品を買うときにタラで支払いをするのであれば、商人がタラを買うときもタラで支払いをしなければならなくなる。これはどう見てもばかげでいる。

ヤップ島のフェイが交換の手段でないのだとしたら、何がそうだったのだろう。それ以上に重要なこととして、ヤップ島のマネーがフェイでなかったのだとしたら、いったい何がヤップ島のマネーたったのだろう。

この二つの問いに対する答えは、とても単純だ。ヤップ島のマネーはフェイではなく、その根底にある、債権と債務を管理しやすくするための信用取引清算システムだったのだ。フェイは信用取引の帳簿をつけるための代用貨幣にすぎなかったニューファンドランド島と同じように、ヤップの島民は魚、ヤシの実、ブタ、ナマコの取引から発生する債権と債務を帳簿につけていった。債権と債務は互いに相殺して決済をする。決済は一回の取引ごと、あるいは1日の終わり、一週間の終わりなどに行われる。決済後に残った差額は繰り越され、取引の相手が望めば、その価値に等しい通貨、つまりフェイを交換して決済される。
これは日で見たり、手で触れたりできる与信残高の記録であり、売り手はそれを将来の交換に使うことができた。言い換えれば、硬貨や通貨は、その根底にある信用取引を記録して、信用取引から発生する債権と債務を清算するのに便利な代用貨幣なのである。ヤップ島では、硬貨が海の底に沈むことがあり、しかもそれが持ち主の財産だとだれもが信じて疑わない。そんなヤップ島の経済より規模の大きな経済でも、硬貨や通貨は必要だろう。しかし、通貨そのものはマネーではない。信用取引をして、通貨による決済をするシステムこそが、マネーなのである。

この話は、どれも現代の読者には聞き覚えがあるだろうし、改めて言うまでもないことであるはずだ。いずれにしても、商品を貨幣とし、貨幣交換を交換の手段を用いて財やサービスを交換し合うことだとする考え方は、硬貨が貴金属から鋳造されていた時代なら、直感的に理解できただろう。
連邦準備制度理事会FRB) やイングランド銀行が発行する銀行券の持ち主がコンスティチユーション通りやスレッドニードル街に行って銀行券を提示すれば、一定の平価で金と引き換えられることが法律で保証されていた時代には、それは理にかなってさえいたかもしれない。
しかし、そんな時代はとうの昔に終わっている。

ケインズフリードマンの称賛
今日の現代的なマネーレジームでは、ドルも、ポンドも、ユーロも、金に裏付けられていない。銀行券を金と引き換える法的な権利もない。現代の銀行券は代用貨幣以外の何物でもないことはきわめて明らかだ。
さらに、現代経済の通貨のほとんどは、銀行券という、価値の裏付けのない物理的な実体すらない。国全体に流通しているマネーの大部分は、物理的な実体を持っていない。たとえば、アメリカの場合は約90%、イギリスの場合は97%は、物理的な実体がまったくない。銀行に口座残高としてあるだけだ。今日では、実体を持つ支払手段は、プラスチックカードとキーパッドだけという場合がほとんどである。極論すれば、マイクロチップWi-Fi接続が交換手段としての商品だと言ってもいい。
ジョン・メイナード・ケインズは、ヤップの島民はマネーの本質を明確に理解していると称賛していたが、これと同じことを言っていた20世紀の偉大な経済学者がもう一人いる。
1991年、79歳のミルトン・フリードマンも、ファーネスの無名の本にたどり着いた。フリードマンケインズと同じイデオロギーを共有しているとはとても言えないので、これは不思議な偶然の一致である。
フリードマンもまた、ヤップの島民は商品をマネーとして使うという不健全な慣習にとらわれていない、通貨の物理的な実体への関心はうすく、マネーは商品ではなく、信用取引をしてそれを清算するシステムなのだということをはっきりと認識していたとほめたたえた。
フリードマンは次のように書いている。「『文明』世界では、地下深くから金属を掘り出して、たいへんな労力をかけて精錬し、しかもそれをはるか遠くに運んで、地下深くに入念に作られた金庫にまた埋め戻した。そんな金属を、人々は一世紀以上の間、富を表すものと信じていた。これがもっとも理にかなった慣習だと、はたして言えるのだろうか。」
20世紀を代表する二人の経済学者のうち、一人の称賛を勝ち取ったのなら、偶然だと言えるかもしれない。しかし、二人の称賛を勝ち取ったとなれば、これは何かあるはずだ。


マネーの三つの基本要素
ヤップ島の話から、マネーの起源と本質に関する標準的な学説には問題があることが明らかになった。
ヤップ島の話は、経済学者に何世紀にもわたってとりついていたマネーの本質に関するまちがった先入観を取り払った。その先入観とは、マネーシステムが機能するには通貨が不可欠であり、商品貨幣は「交換の手段」として機能したというものだ。これは標準的な貨幣論の拠り所となっていた。
しかし、ヤップ島のような原始的な経済でも、現代のシステムとまったく同じように、通貨とは実体的な裏付けのない表象的なものであることが明らかになった。通貨の根底にある信用と清算のメカニズムこそが、マネーの本質なのである。マネーの本質と起源に関するこの考え方は、標準的な貨幣論が描いた世界観とはまったくちがう。
このもう一つの貨幣論の中心にあるもの、原始概念と言ってもいいものは、信用だ。マネーは、交換の手段ではなく、三つの基本要素でできた社会的技術である。

基本要素の一つ目は、抽象的な価値単位を提供することである。二つ目は、会計のシステムだ。取引から発生する個人や組織の債権あるいは債務の残高を記録する仕組みのことである。そして三つ目は、譲渡性である。原債権者は債務者の債務を第三者に譲り渡して、別の債務の決済にあてることができる。
この三つ目の要素はきわめて重要だ。すべてのマネーは信用だが、すべての信用がマネーであるわけではない。そのちがいは、譲渡できるかどうかにある。借用書は、それが二当事者間たけの契約であるかぎりは、融資でしかない。信用ではあるが、マネーではない。
借用書を第三者の手に渡すことができるようになる、つまり、金融用語でいう「譲渡」あるいは「裏書き」ができるようになると、信用に命が吹き込まれ、マネーとして機能し始める。
言い換えれば、マネーは単なる信用ではない。譲渡することが可能な信用なのだ。19世紀の経済学者、法律家のへンリー・ダニング・マクラウドは、次のように述べている。
こうした簡単な考察から、通貨の基本的な性質はすぐに明らかになる。貨幣の最も重要な機能は、言うまでもなく、債務の価値を測定して記録することであり、ある人から別の人への移転を円滑にすることである。そして、この目的でどのような手段が選ばれたとしでも、たとえ金であれ、銀であれ、紙であれ、それ以外の何であっても、それは通貨である。したがって、「通貨」と「譲渡可能な債務」は同義語だということが基本的な概念であると言える。つまり、あらゆる種類の譲渡可能な債務を表すものはすべて「通貨」であり、「通貨」となる素材は、たとえそれがどのようなものであっても、すべて「譲渡可能な債務」を表し、それ以外の何物でもない

債務を譲渡可能にする
この後で見るように、債務を譲渡することを可能にするこのイノベーションは、マネーの歴史の中で画期的を出来事だった。社会や経済を革命的に変えたのは、神話のような物々交換経済からの卒業ではなく、この譲渡可能な債務の登場なのである。これは誇張でもなんでもない。ビクトリア調のメロドラマのような芝居かかった言い回しは大目に見てもらいたいのだが、マクラウドもこう記している。
人類の運命にとても大きな影響を与えているこの発見をだれがしたのかと問われたならどうするか。熟慮に熟慮を重ねたうえで、こう答えて差し支えないだろうと考えるにいたった。「債務」は「売ることができる商品」であることを最初に発見した男だ、と。
マネーの基本要素のうち、この三つ目の要素の意味を理解することは大切である。何がマネーの価値を決めるのか、マネーは信用以外の何物でもないにもかかわらず、なぜだれでも好きなように創れるわけではないのか、その理由が明らかになるからだ。
借用書での支払いを受け入れるには、売り手は二つのことを信じていなければならない。第一に、売り手が受け入れようとしている債務は、いざというときには債務者がそれを弁済できると信じる理由がなければいけない。言い換えると、マネーの発行者には信用力があると信じられなければならないということだ。二者間の信用は、こうした信頼関係の上に成り立っている。
マネーのハードルはさらに高い。信用がマネーになるには、債務者の借用書での支払いを第三者が進んで受け入れると売り手が信じていることも必要になる。売り手はその借用書が、現時点で譲渡可能であり、これからもずっと譲渡可能であり続けると信じていなければならない。つまり、このマネーの市場に流動性があるということである。この二つを信じる根拠がどれだけ強いかによって、発行者の借用書がマネーとして流通できるかどうかが決まる。
この三つ目の要素である譲渡性があるから、政府が発行する貨幣や、銀行が発行し、政府が安全性を保証する貨幣は特別なものと考えられているのである。実際、政府と政府機関だけが貨幣を発行できると主張する学説もある。この説は 「貨幣国定学説」として知られ、大きな影響力を持つ。
しかし、これも誤った先入観であることは、アイルランドの銀行閉鎖の話*1からも明らかだ。アイルランドの銀行閉鎖が物語るように、信用を創造して清算するシステムは、公的に認められたものである必要はない。公的なシステムである銀行は7カ月近く営業を停止した。しかし、マネーは消滅しなかった。海の底に沈んだあのフェイと同じように、銀行は突然、姿を消した。それとともに、信用取引をしてそれを清算する公的な機構もなくなった。それでも、マネーは存在し続けた。
アイルランドの銀行閉鎖の話がはっきりと示しているように、銀行、クレジットカード、そして、厳粛な図柄が描かれ、偽造防止のための印章がほどこされた紙幣という公的な装置は、マネーに不可欠な要素ではない。こうした要素がすべて消えてなくなることがあるが、それでもマネーはなくならない。

債権債務というシステムは、拍動する心臓のように拡張と収縮を繰り返し、取引を循環させる。問題は、一般大衆から信用力があると信頼されている発行体がいるか、その発行体の債務証書は第三者に受け入れられると広く信じられているか、ということだけだ。政府と銀行は、この二つの基準をたいてい簡単に満たせる。だが、企業がこの基準を満たすのはたいていむずかしい。個人となればなおさらだ。しかし、アイルランドの例が示すように、この経験則はどんな場合にでもあてはまるわけではない。公的なマネーシステムが崩壊すると、社会は驚くべき力を発揮して、それに代わるシステムをすぐに作り上げる。

21世紀の貨幣論

21世紀の貨幣論

物々交換は古代の通常の取引では存在しなかった、という研究はデヴィッド・グレーバ​ー著「負債−最初の5,000年」(DEBT:THE FIRST 5000 YEARS)でも紹介されています。*2

このグレーバーの著書によれば、未開な物々交換を貨幣が代替していくという神話の基礎はアダム・スミスが創ったとされ、*3 フェリックス・マーティンの見解とも一致しています。

私達、あるいは経済学者も堅固に信じている物々交換からのマネー史観というものも人類学者の意見なども参考に、修正されるべきなのかもしれません。
        **************************************

【関連記事】こちらも「21世紀の貨幣論」の紹介ですが、経済学の方面ではもしかしたらこちらの章の方がインパクトがあるかも知れません。

 サブプライム住宅ローン危機(2006-)、リーマン・ブラザーズ破綻(2008)そしてリーマン・ショック
 英国女王はロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにてこう尋ねます。「なぜ、誰もこのようなことが起こる事を予測できなかったのですか?」(2008)
 ローレンス・サマーズは、ブレトンウッズコンファレンスにて「DSGEモデルなど、第二次世界大戦後の正統派経済理論の膨大な体系が危機対応においてはまるで役に立たなかった」(2011)
 イングランド銀行総裁「現代経済理論では金融仲介機能が説明されておらずマネー・信用・銀行が意味のある役割を果たしていない」(2012)

筆者・フェリックス・マーティンはこう指摘しています。
「経済学者はマネー・銀行・金融の存在しない、経済の一般均衡理論の抽象化と言う神秘の超越瞑想に耽ってもいいが為政者は現実世界と向き合わなければならない。」

マネーの正体は貸借-21世紀の貨幣論 - シェイブテイル日記 マネーの正体は貸借-21世紀の貨幣論 - シェイブテイル日記

*1:1970年代、アイルランドで銀行労働者のストライキにより銀行が数ヶ月にわたって突然閉鎖され、機能停止してしまった事件。

*2:この本については「現代思想(2012.​2Vol40-2)特​集 債務危機」に松村圭一郎氏が詳細な紹介をしています。

*3:D.Graeber, "Debt: The First 5000 Years" (2011):24-28